003.洗濯機

若い頃から、明治・大正生まれの人の随筆集を読むのが好きでした。例えば1904年(明治37年)日露戦争が始まった年に生まれた永井龍男の随筆です。

永井龍男は、15歳で高等小学校を卒業した後、虚弱な体質と家庭の事情で上級学校への進学は断念したものの、23歳の時に懸賞小説の選者だった菊池寛が社長を務める文藝春秋社を訪ねて社に入れてもらい、数多くの雑誌編集を手掛け、芥川賞・直木賞の創設に事務方としてたずさわり、文藝春秋誌の編集長を務め、戦後は自身が作家として活躍した人物です。数々の文学賞に輝き、文化勲章も受章し、1990年、平成2年にこの世を去りました

私は、永井龍男の描くなんでもない戦前・戦後の街並みや人々の暮らしに、たまらなく心惹かれたものでした。

 朝起きると階下へ降り、南と北の雨戸を十数枚あける。ここ二年ばかり、人手不足が重なって以来、一年中それが私の役目になったようだ。
 新聞受けは門の外にあるので、それから玄関の錠を外し、朝刊を取りに出る。新聞受けには、牛乳とヨーグルトが同居している。
 朝刊を小脇に、数本の牛乳とヨーグルトを両手に門をくぐり直す時、ああ昔の牛乳ビンはと思ったことがある。踏石に霜が白く、瓶の冷たさが身にしみたせいであろう。昔の牛乳は、こんな時間に取りに出れば、毎朝ほのぬくさが残っていた。そのぬくもりが、牛乳の滋養分を証明しているように信じ込んでいる人もあった。
 (中略)
 東京の神田区、そこの駿河台という台地は、当時病院町として知られていた。私はそのすぐ下の横町で生まれ、十代をそこで育ったのでよく覚えているが、牛乳屋の第一の得意先は病院だったから、お茶の水橋を一またぎすれば駿河台になる本郷や、水道橋に近い三崎町界隈には牛乳屋が多かった。牛乳屋の前にはその店の名入りの箱車が数台ならび、台数の多いほど繁盛していることになった。
 (中略)
 駿河台が病院町なら、その下の神保町界隈は学生町であった。したがって、古本屋と下宿、素人下宿が名物となったが、もう一つ忘れてならぬものにミルク・ホールがある。喫茶店などのない頃で、学生たちはここで骨休みをした。
 店の表には、ごくありきたりの硝子戸が四枚、その一枚に「官報あります」と貼り紙をしてあった。入るとテーブル・クロスが白い。大きなテーブルで、五、六人はゆうにかけられる。新聞の綴じ込みが一隅に数種類あり、官報は試験の日取りや成績発表の日を知るために必要だったのであろうか。
 牛乳が五銭、トーストが五銭、他にミルクシェーキが出来た。なんとも清潔な感じで、冬はあたたかく、夏は扇風機が備付けられてあったと思う。
 (中略)
 冬の夜、熱い牛乳を呑むのはいいものだった。両手に包んでゆっくり呑んだ。そんなことを思い出していると、音羽亭の匂いまでしてきた。人間というものは、ささいなことを、いつまでも覚えている。覚えておくつもりはなかったことを、かえっていつまでも覚えている。
「霜の朝」(昭和49年12月「CREATA」初出)『へっぽこ先生その他』講談社文芸文庫 p.74-7より

こんな文章を読むと私の脳裏には自然と、寝巻きの帯を前に締め牛乳瓶を両手で口に運ぶ幼い少年の姿や、病室の窓から配達の箱車を眺める三つ編みを横に垂らした若いご婦人の姿や、ミルク・ホールから飛び出すと腰の手ぬぐいをひるがえして下駄の音も高らかに、路面電車の線路を大股で横切っていく学生さんの姿などが浮かんでくるのです。知らないうちに脳裏の幻灯機にスイッチが入るようです。

そんな永井龍男の短編「五銭銅貨」の冒頭の一節は私の心に一石を投じ、その波紋は何年もの長い間、ずっと私の中で広がり続けたものでした。

  電気洗濯機を買ってから、考えごとの時間をなくしたと、ある主婦が云ったそうだ。たらいで洗濯をしながら、あれこれと思いを運ぶのは、日本の主婦の永い習慣である。この主婦も、やがて電気洗濯機が生んでくれた時間を、読書や思索に利用するであろう。(後略)
「五銭銅貨」(昭和30年10月「電信電話」初出)   『へっぽこ先生その他』講談社文芸文庫 p.13より

この文章が発表されたのは、昭和30年(1955年)10月で、翌年には「もはや戦後ではない」が有名になった経済白書が発表されました。それから三十数年経ち、昭和から平成に時代が変わった頃、私はこの文章に接し軽い衝撃を受けました。

いつものように行間から勝手に映像が立ち上がり、私の脳裏には白い割烹着を着たお母さんが、真っ黒に汚れた子どもの靴下を洗濯板に当て石鹸でゴシゴシと洗いながら、一体どんな遊びをしたらこんなに汚れるのかしら、誰と遊んでいたのかしらと想ったり、夫のシャツの襟元を念入りにこすりながら、汗と油にまみれて働く夫の姿を思い浮かべ、今夜の夕飯のおかずを考えたりしている姿が浮かんできました。

洗濯というのはそもそも、洗濯機が登場するまで、多くの主婦がこんな風にして家族のことを想ってするものだったのかと、それまで考えもしなかったことに我ながら驚きました。私自身が物心ついた頃にはもう洗濯機、冷蔵庫、テレビの三種の神器は揃っていましたから、思いもよらないことでした。

美しい家族愛を感じると同時に、まるで電気洗濯機を使うと家族愛が失われると批難を受けているように私は感じました。同じようにテレビが家族団欒の会話を奪ったなどともよく耳にしたものでした。主婦は永いこと洗濯をしながら家族のことを考えてきたのだから、そんな美しい習慣を失ってはならないと叱られているような気持ちがしました。心の奥で、叱責に対する違和感のようなものが首をもたげました。

この文章を読んでから30年ほど経ちましたが、脳裏に浮かんだ映像と感じた違和感は消えることなく私の心にあり続けました。今回、このnote に文章を書こうと思った時に、なぜかこの違和感について書きたいと思いました。そして本棚の奥から古い本を探してきて引用したのが上の文章です。

実は、この本を久しぶりに手に取った時、私は「白い割烹着」という言葉を目で探していました。しかし本のどこにもそんな言葉は書かれていませんでした。さらに「家族のことを考えながら」という表現もどこにもありませんでした。永井龍男は、日本の主婦の永い習慣とは「たらいで洗濯をしながら、あれこれと思いを運ぶこと」と書いたに過ぎず、またこの文章は「この主婦も、やがて電気洗濯機が生んでくれた時間を、読書や思索に利用するであろう」と締めているのでした。

今私は、きつねかたぬきか、目に見えぬ化け物と長いこと闘ってきたような気がしています。「人間というものは、ささいなことを、いつまでも覚えている。覚えておくつもりはなかったことを、かえっていつまでも覚えている」と永井龍男は書いていますが、想像の産物と、そこから湧き出た感情までもいつまでも覚えているようです。


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