180.歯医者さん
昭和40年(1965年)頃、私は乳歯が虫歯になり、母にバス通り向こうにある歯医者さんに連れて行かれました。
その歯医者さんの門を入ると敷地には飛び石があって、それを十個くらい踏んでいくと模様のあるガラスでできた玄関があり、その左手には緑の芝生が敷き詰められた広い庭があって、真ん中に白いブランコが置いてありました。
母によそ見をしないように言われて、歯医者さんの模様ガラスの玄関を開け、そこで靴を脱いでスリッパに履き替えました。子ども用の小さなスリッパもありました。受付で母が何やら話している間、私は絵本がたくさん詰まっているブックスタンドを眺めながら、この『101匹わんちゃん大行進』を手に取って見てもいいのかなとワクワクしていました。
母に聞いてみたら「いいわよ」と言うので、早速手に取り緑色の塩化ビニールのソファに座って読み始めました。あの頃はまだ読める字があまりなかったので、読むというより、ただ可愛らしいわんちゃんの絵を眺めていただけでしたが、忘れられない幸福なひとときでした。
まだまだ眺めていたいのに、すぐに名前が呼ばれました。母と一緒に診察室に入っていくと、白衣を着た優しそうなおじいさんの先生がいて、「さあ、この椅子にお掛けなさい」と言われました。
そして、先生が椅子の足元にあるペダルをギコギコと何度か踏むと、私の座っている椅子がどんどん高くなって行きました。床屋さんにあるような椅子でしたが背もたれがもっと高いのでした。銀色の台の上には、青や緑、それに茶色のガラス瓶がのっていて、脱脂綿や先の尖ったピンセットや、先に丸い鏡のついた銀の器具などがありました。
先生がよだれ掛けのような白い布のエプロンをかけてくれて、すぐそばにある小さな洗面所のようなところに置いてある銀色のコップで「ぶくぶくパイ」をしなさいと言われ、言われた通りにしていると、母が先生に「この子はお菓子ばかり食べていて」とか「左下の奥歯が虫歯になっていて」などと説明する声が断片的に聞こえてきました。
先生は、電気スタンドのようなものを私の顔の上へ片手でグイと引き寄せて、「はい、ではお口を大きくあけましょう」と言いました。眩しくて思わず目をつぶりましたが、それでも光は強烈で、まぶたの裏が赤く光っているようでした。
これが私の歯医者さん初体験なのですが、私の記憶はここまでで、このあとどうなったかよく覚えていません。あのキーンという恐ろしい機械で虫歯を削られたのだと思いますが、その恐怖体験の記憶はありません。どうしてあの強烈な体験を覚えていなくて、庭の敷石やブランコ、それに『101匹わんちゃん大行進』の絵本ばかりが映像として残っているのかわかりませんが、人の記憶とは不思議なものです。
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この歯医者さんは子ども好きなのか、まだ小さかった私にとても優しくしてくれて、帰りに白いブランコに乗ってもいいよと声をかけてくれました。そしてその次か、その次の次に行った時、私が手に持っていたおもちゃのレーシングカーに、あの怖い歯を削る機械で私の名前を彫ってくれました。
その日、私は買ってもらったレーシングカーを片手に持っていました。車体の長さは14、5センチほどの大きさの緑色の車体のレーシングカーで、コックピットの透明な蓋を開けると、中にビニール袋に包まれた小さな色とりどりの金平糖が入っていました。その金平糖を食べ終わったあとも、私はレーシングカーを手放さずにどこに行くにも持ち歩いていたのでした。
今、この文章を書いていて初めて気づきましたが、私の虫歯の原因になったのは、このレーシングカーに入っていた金平糖だったのかもしれません。私はずっと舐めていられなくて、すぐに途中でバリバリと噛み砕いていました。
先生は、椅子に座った私の手に緑色のレーシングカーが握られているのを見ると「どれ、ちょっと貸してごらん」と言うと、あの恐ろしいキーンという機械で車体の裏側にひらがなで私の名前を大きく彫ってくれました。私は今でもあの時のことをよく覚えていて、削られるのが自分の歯ではなくてレーシングカーなら、どんなに怖い音がしても全然怖くないんだと思いながら、先生の手元を見つめていました。
名前の文字は、ひとつひとつが一円玉くらいの大きさでした。椅子のすぐ後ろに立っていた母は、恐縮して何度も何度もお礼をいい、そのお礼の様子からいって、これはとても特別なことなんだということが伝わってきました。こうして私のフルネーム入りのレーシングカーは私の宝物になりました。
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この歯医者さんには、その後も何度も通うことになりました。一番の原因は、せっかく奥歯に銀を詰めてもらったのに、私はすぐにキャラメルを噛んでしまって詰め物の銀が取れてしまうからでした。
チューインガムで銀が取れることはありませんでしたが、キャラメルとミルキーは危険でした。母から何度も何度も「決して噛んじゃダメよ。ちゃんと舐めているのよ」と注意されても、気がつくとキャラメルを噛んでいて、そして銀が取れてしまうのでした。
もう何度も注意されて、母もいい加減叱り疲れていたとは思いますが、それでもまた銀の詰め物が取れたと言っては歯医者さんに通うことになるのでした。
乳歯はまだしも大人の歯は永久歯と言って、もう二度と生え変わることはないからしっかり歯磨きをして、虫歯にならないようにと言われ続けてきましたが、同じことは何度も繰り返されました。
歯医者さんに行くのは、怖いし、痛いし、イヤだけど、でも、帰りに母がパス通りにあるお店で頑張ったご褒美に「魚肉ソーセージ」を買ってくれることになっていたので、それを楽しみに通っていました。白衣の先生は、行くたびに「帰りにブランコに乗っていいよ」と声をかけてくれました。
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ところがある時、その日はいつもの歯医者さんが臨時休業だったのか、それとも何か別の理由があったのか、私は母に連れられて、神社の近くの歯医者さんに行くことになりました。
多分、またキャラメルでも噛んで詰め物の銀が取れたのだと思います。その歯医者さんは、ちょっと珍しい名字の歯医者さんで、住宅地にありました。いかにも病院といった門構えなっていましたが、子ども用のスリッパはありませんでした。いつもと様子が違って私は緊張していました。
診察室に入ると、いつもの先生が語りかけてくれるような「よく来たねぇ。今日はどうしたのかな?」とか「おや、今日はレーシングカーは置いてきたのかな?」などと声をかけてくれることもなく、テキパキと治療が始まりました。
そして、いつものおじいさんの先生よりもっとずっと若くて髪が黒くてふさふさしている歯医者さんに、あの恐ろしいキーンという機械で歯を削ってもらっていた時、思わず「痛い!(実際には「ヒハイ!」)」と声を出したら、先生は私の声を打ち消すような大声で「痛くない!!」と怒鳴りつけたのです。
今思っても小さな患者相手とのそのやり取りは、相当滑稽だったに違いないのですが、その時私は子どもながらに、痛いかどうかは患者の私にしかわからないことなのに、どうしてそんなことを断言するのだろうなどと不思議に思いました。でも怒鳴られてとても怖かったので、とにかく母が何と言おうとも、もう絶対にこの歯医者さんには来るものかと決意したのでした。
その後の治療がどうなったのか、そこの記憶はまったくないのですが、私はもう二度とこの神社の近くの歯医者さんへは行くことはありませんでした。それでも近所の人たちの間では、ここの先生は「上手い」ということで評判でした。
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私はお菓子ばかり食べていた子どもでしたが、実は母自身もお菓子が大好きで、祖母の話によれば、母が子どもの頃にも「このご飯を全部食べたらこのお菓子を食べてもよろしい」と言われて、無理矢理食事を口に押し込んでいたということでしたから、私の甘い物好きは筋金入りで、歯医者通いも親子二代の受け継がれたものでした。
私はその後も、詰め物の銀が、金やらセラミックに出世したり、ブリッジになったり差し歯になったりと、歯医者さんなくしては私の人生は考えられないほど、本当にお世話になってきました。歯の質もあまり良くないらしく、子どもの頃からお煎餅のような硬いものを食べると歯が欠けるかもしれないので気をつけるようにと注意を受けてきました。
かつては、瓶のコーラの栓を歯でこじ開けるのがカッコいいなどと言われていたこともありますが、私にとってはとんでもないことで、そのような質の良い歯にずっと憧れてきました。歯医者通いは私の人生とは切っても切り離すことは出来ず、これまでにかかった治療費も、合計すれば車の一台や二台は買えそうなほどになりました。
そんな私でもどういうわけか歯並びだけは良かったのですが、歯並びも今とは違って、八重歯はチャームポイントとよく言われていたし、前歯がリスのように出ているのも可愛らしいとよく耳にしました。
「芸能人は歯が命」というCMが一世風靡したのは1995年のことでした。今から四半世紀以上も前のことですが、アメリカ人は矯正してでも歯並びを重視するらしいなどとも言われるようになり、私の周囲でも歯並びを矯正するために抜歯したり、差し歯にしたり、インプラントにしたりする人も増えてきました。
私が小さな子どもの頃のお年寄りは、歯がなかった人が大勢いました。入れ歯の人ももちろんいましたが、抜けた歯はそのままにして暮らしている人々も少しも珍しくはありませんでした。戦前の写真や映像を見ていると、前歯が金歯や銀歯の人は大勢いるし、橋杭岩のように、歯がところどころ抜けている人や、あるいは逆にところどころだけ残っているという人も大勢いました。
今から20年くらい前にテレビでアフガニスタンのお年寄りのインタビューを見ていたら、日に焼けたおじいさんの顔には深い皺が刻まれ、インタビューに答える口元には上に数本、下にも数本の歯しか残っていなかったのですが、その映像を見て、私が子どもの頃にはこういうお年寄りがあちこちにいたことを思い出しました。
平均寿命が伸びてきた要因は数々あるでしょうが、その中のひとつには間違いなく歯科治療の飛躍的進歩というのもあったと思います。もし私が一世紀早く生を受けていたならば、今から100年前の1923年、関東大震災の年に64歳となるわけですから、きっとブリッジもセラミックもなく、私も立派な歯っ欠け婆さんとして生活していたことと思います。これでは栄養も十分に摂れず長生きは難しかったことでしょう。
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私は長年歯には悩まされてきたので、常にかかりつけの歯科医院が必要で、大人になってからは勤務先の近くの歯医者さんに通っていました。アメリカの歯科大学を卒業した先生で完全予約制で最新鋭の設備を揃えていました。
そんな頃、母がいつまでもかかりつけ医を変えずに、駅前のギコギコ椅子の歯医者さんに通い続けていて、もはや診察椅子は真っ平になるのが普通なのだから、そろそろ最新技術を持ったもっと若い先生のところへ行ったらいいのにと思っていましたが、この年になると、あの頃の母の気持ちもわかるようになりました。
最近私が感じるのは、今の若者は本当に虫歯がないということです。知り合いの20代、30代の人たちと話をしていると、実にみんな美しい歯をしています。虫歯はないのかと聞いてみると「ないです」「歯医者さんには定期検診に行くだけです」と答える人が私の周囲には多くいて驚かされます。歌手や俳優がテレビ画面で大写しになっても、ほとんど虫歯がまったくないきれいな歯をしています。
歯に対する意識が、昔とは大きく変わってきたのだと思います。実際に色々な統計でこの傾向は示されています。
そういえば、脱線ですが、私がフランスに行った1985年に、医学生のルームメイトが部屋にポスターを貼っていて、そこには歯ブラシを持った女の子の写真に「毎日歯を磨きましょう」というキャッチフレーズが書いてありました。あの頃のフランスではシャワーも週に一回、歯磨きもその時だけという人が多くて、啓蒙するのも医師の務めだと言う話でした。世界的に衛生観念も変わりました。
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レーシングカーに名前を彫ってくださった先生は、私が4年生の終わりに引越しするまでずっと診てくださいましたが、しばらくして引退されて息子さんの代になったと聞きました。私が知っていたのはそこまででしたが、今、この稿を書きながらGoogle mapsで検索してみたら、同じ場所に同じ名前の歯医者さんが今もあることがわかりました。ストーリートビューで見てみると、模様ガラスのある玄関ごと建物はすっかり変わっていて、あの飛び石のある芝生の庭もブランコも消滅して、その辺りは患者用の駐車場になっていました。
あの「痛くない!」の先生も、同じようにGoogle mapsで検索してみたら、今も尚、神社の近くの同じ場所に、同じ珍しい名前の歯科医院がありました。怖かったけれど腕が良いという評判だった、あの黒い髪がフサフサだった先生の二代目か、あるいは三代目が継いでいるのかもしれません。ストリートビューには、驚いたことに、子どもの頃のままの歯科医院の姿がありました。