264.乳がんと選択

本稿は、2022/10/1に掲載した記事の再録です。

2014年夏、私は乳がんで左乳房の全摘手術を受けました。8年前のことです。

私の乳がんは、浸潤性入管癌、直径5.1cm、範囲は12x9cmの広範囲に及んでおり、核異型度3、ER3+、PgR3+、Her2−、ルミナールA、Ki67は14.9%、リンパ節転移は21個中11個で、レベルⅡまでの腋窩リンパ節郭清、ステージ3c、再発リスクは8-9割と言われました。

私が選択した治療は、全摘手術、放射線、ホルモン剤で、抗がん剤はしませんでした。それでも8年経った今日も再発することなく元気で暮らしています。

がんになった時、私は多くの方々が書かれたブログや本を読みました。たくさんの経験談に本当に助けられました。経験談を書いてくださった方々への心からの感謝の気持ちを込めて、今度は皆さまのお役に少しでも立ちたいと思い、私自身の経験談をここに書き記したいと思います。


1. 始まりはホクロから

乳がんなのにホクロとは一体なんのことかと思われるでしょうが、私の場合はおへその横にできた小さなホクロが一連のがん治療のキッカケとなりました。

当時から遡ること5年か10年位、いつだか正確には思い出せないほど昔、おへその横に爪楊枝の背に墨汁をつけて点でも打ったのかと思うようなほんの小さなホクロができました。それが次第に少しずつ大きくなって、2014年の年明けには直径1センチくらいのいびつな形になっていました。

色は黒と茶色のまだらで凹凸があり、インターネットで皮膚がんの画像を見てみると、悪性黒色腫と名付けられた症例写真に酷似していました。そこで駅前の皮膚科へ行き、専門医への紹介状を書いてもらい、2014年3月に摘出手術を受けました。当時54歳、55歳になる年でした。

翌週になって病理検査の結果が出ると、摘出したものは皮膚がん「悪性黒色腫」別名メラノーマだと診断されました。10万人に1人というがんです。「巨人の星」の主人公星飛雄馬の恋人美奈さんが、爪にできた悪性黒色腫で亡くなったことでもこの病気は知られています。私は思った通りの診断が出て、変な表現ですが、安堵しました。

専門医はこのがんは悪性度が高いのでフォローアップの必要があると言い、早速「国立がん研究センター」の皮膚科宛に診断情報提供書を書いてくださいました。いわゆる築地のがんセンターです。

私は手術が終わってからがんセンターに細胞診の結果と紹介状を持っていくのかと少し意外に思いましたが、日本の最高峰の治療を受けられるのかと思い、すぐに予約を取りました。今度はがんセンターの皮膚科で、手術したばかりのお腹の傷痕の周囲をさらにふた回りほど大きく切除してもらいました。

悪性黒色腫メラノーマは悪性度が高いのでこのようにできるだけ大きく切除し、さらに全身のCTを撮って転移がないことを確認する必要があるとのことでした。

とはいえ私の場合、早期発見で皮膚への浸潤度も低く、ステージ1aと診断されており、CTも「一応念のため」ということでしたから、結果はわざわざ病院に聞きに来るまでもなく、担当医に電話で確認すれば良いと言われました。

結果が出る日、その日は実家の母の白内障手術後の通院に付き添う予定だったので、午前中で仕事を終え、急ぎ実家へと向かう駅のホームでがんセンターに電話を入れたところ、医師からは次のように告げられました。

「CT検査の結果、腋窩リンパ節がいくつか腫れていることがわかりました。こういうケースは乳がんの場合が多いので、近隣の乳腺外科で乳がんの診断をしてもらって、えーと、紹介状は僕のところではなくて、乳腺外科に出してもらえますか?」

私は数多くの闘病記を読んできましたが、電話で、しかも駅のホームで、乳がんの告知(らしきもの)を受けたという事例にはであったことはありませんでした。

2. 腋窩リンパ節転移

翌日、インターネットで近所の乳腺外科を探して次々に電話をかけましたが、小さなクリニックから地域を代表する大病院まで、何軒も電話をしましたが、どこも数ヶ月待ちという状態で予約が取れません。

どうしたものかとぼんやりしていた時、以前に読んだ佐野洋子の著書『死ぬ気まんまん』の内容がふと思い浮かびました。佐野洋子は絵本『100万回生きたねこ』の著者として有名ですが、私は彼女のエッセイの大ファンでした。佐野洋子は2010年に乳がんで亡くなりましたが、2011年に出版された最後の本の中である病院についての描写がありました。

多摩丘陵は秋の黄金色と透き通る赤やオレンジがこき混ぜて光っていた。その病院は素晴らしい眺望の中に、高速の出口にあるようなラブホテルみたいな様子でニューとそこだけつき出てる。チョコレート色のレンガ造りで、白いバルコニーなどがあり、ありとあらゆるちょっと古くさい西洋風な様式を混ぜ合わせて女の子に描かせたお城のように見えないこともなかった。
佐野洋子著『死ぬ気まんまん』光文社より

この病院はホスピスなのですが、せっかくならこんな病院で診てもらいたいなと思って、あれこれと検索してみたら、それらしき病院があったので電話してみました。すると「ちょうど今日の午後、乳腺外科の先生が来るのでお越しください」と言われました。数時間後、ラブホテルのような病院に到着すると、本当に本の描写とそっくりな外観と内装の病院が目の前に現れて驚きました。

私の目にとび込んできたのは、ホールにある白いピアノとその上の盛大な生花の華やかさであった。床は大理石でテラテラ光っていた。待合室というか広いホールには花模様のフリルがたっぷりついた応接セットのような椅子があった。内科の廊下に置いてある椅子も花模様フリル付きなのだ。同じ模様のクッション付きである。廊下のつきあたりにマホガニー製のチェストがあり、そこにもてんこ盛りの花があり、でかい鏡が、バラの花の彫刻があるがくぶちの中に光っていた。
佐野洋子著『死ぬ気まんまん』光文社より

問診票にこれまでの経緯を記入して、名前を呼ばれて診察室に入ると、私より少し若い男性医師に「上半身全部脱いで、そこに横になってください」と言われました。そしておもむろに左乳房から脇の下を触診したかと思ったら「あ、これですね、これ。わかりますか? このグリグリ。パチンコ玉より少し大きいグリグリがあるでしょう?」と私にも脇の下の皮膚の下を触らせました。

ありました。しかも2個。まぁるい手触りも可愛らしいグリグリが2個、指先に触りました。医師は「既にリンパ節に転移していますね」と私に告げました。

それからCTと超音波の検査をし、再び診察室に戻ると、医師は難しい顔をして、「腋窩リンパ節転移は確認できるのですが…、ただ乳がんの確定診断はできません」と言ったのです。今思えば、私の乳がんは既に最も大きいものが直径が5cm以上もあり、他にも細かい腫瘍が12x9cm の広範囲に広がっていた為、すぐに一般的な乳がんとは断定できなかったのではないかと思います。

確定診断をするためにはMRIを撮る必要があるけれど、この病院にはMRIはなく、近隣病院でもMRI撮影の予約は軒並み数ヶ月待ちだということで、「どうしましょうか」と聞かれました。そこで私は「では、がんセンターの皮膚科医にどうしたらいいのか聞いてみます」と言って、その場で電話をかけて経緯を説明したところ、それではその医師にがんセンターの乳腺外科宛に紹介状を書いてもらって予約を取ってきてくださいと言われ、その通りにしました。

帰宅の途中に立ち寄ったスポーツクラブでジャグジーに入りながら、改めて自分でグリグリを触ってみたら、ちゃんと2個あるので、やっぱりがんセンターのCT読影担当者は凄いのだ思いました。思いがけないことから乳がん発見に繋がり、がんセンターに紹介状を書いてくれた、皮膚科の専門医にも感謝しました。

その時点では、私はリンパ節に転移しているという事の重大性をまったく理解していませんでした。乳がんの確定診断が下るより先に、リンパ節転移を自らの指先で確認してしまうという珍しいケースになりましたが、ここでリンパ節転移をしっかり自己認識したため、その後の治療過程において甘い見通しを持たず現実的な判断ができました。この時の医師の対応に私はとても感謝しています。

3. 担当医とのチグハグ問答

早速紹介状を片手に、がんセンターの今度は乳腺外科へ行きました。担当医はこれまでの説明と触診を済ませると「還暦子さんの場合は薬物治療が中心になると思います」と言いました。私はそうなのかと思いつつ「ところで手術になった場合はいつ頃になるのでしょうか」と質問してみました。

すると担当医は「ですから、還暦子さんの場合は薬物治療が中心になるのです」と繰り返しました。私はなるほど薬物治療が中心なのねと思いつつも、「先生、それでも手術をする場合は何日くらい入院するのでしょうか」とたずねました。担当医はちょっと困ったなという表情をしながら、「うーん、還暦子さんの場合は、手術というより薬物治療が中心なんですよね」と控えめに繰り返しました。

後になって思い返せば、担当医は診断情報提供書の内容と私の説明から、もう手遅れだから手術はやっても無駄ですよと遠回しに告げていたのだと思うのです。しかし私としてはまさかそんなこととも露知らず、仕事の都合もあるし、手術の日程や入院予定を聞いておきたいと思っていたのになんだかはぐらかされているようだと感じていました。

それでも改めてX線、エコー、針生検の日程を次々に入れることになりました。MRIは閉所恐怖症なのでやりたくないと言ったら、ではやめましょうということになり、さらに私は既に悪性黒色腫メラノーマの確定診断が出ているのでPET検査が保険適用になりますから予約を入れましょうということになりました。

この日、私はがんセンターの売店で、『国立がん研究センターの乳がんの本』と豊増さくらと乳がん患者会bambi*組著『乳がんと診断されたらすぐに読みたい本 ~私たち100人の乳がん体験記』の2冊を購入しました。

前者は、がんセンターの乳腺外科の医師が監修している乳がんの教科書とでもいうべき本で、乳がん患者必読本だと感じました。さらに私にとって役立ったのは後者の100人の体験記でした。実は乳がんとひと口に言っても、その種類は千差万別で、ステージ・核グレード・サブタイプなどによって治療法が異なるということがよくわかりました。

その本には、100人、実際には120人の治療記録が一目でわかる大一覧表が載っていて、教科書で読んだことを実感として捉えることができました。

高額療養費制度は月をまたがない方がお得ですという情報から、職場への公表、ウィッグの費用、発見の経緯など120人のあらゆる情報が掲載されていて本当にありがたいものでした。がんの種類も治療法も、それにひとりひとりの性格や年齢や既婚か子どもがいるかどうかなどその人の置かれた環境によっても、実に様々だということがよく理解できました。

そしてすべての検査結果が出揃ったところで、再び担当医と面談となりました。するとPET結果を眺めていた医師が、突然「あれ? 遠隔転移してないね。これなら手術できますよ!」と言ったのです。一気に手術の日程、それに向けての麻酔科との面談や入院のための検査スケジュールが決まっていきました。この時、初めて私は先日のチグハグ問答の意味を理解しました。

しかし、この時までに私は数多くのブログや闘病記を読んでいたので、担当医にセカンドオピニオンも取りたいので、診療情報提供書と画像データをくださいとお願いし、それを手に入れました。

4. 近藤誠医師との面談

1990年代の半ば、以前の職場で同僚の机の上に近藤誠著の『患者よ、がんと闘うな』という本が乗っていたことがありました。その同僚はお父さんを亡くされたばかりで「もう少し早くこの本に出逢っていれば、父にあれほど苦しい思いをさせることはなかった」と目に涙を浮かべて語っていました。

私もその時、本を借りて読みました。その後も月刊誌、週刊誌、単行本などで近藤誠論争が起きると、賛否両論、私も手に取って目を通してきました。この度、実際に自分が立て続けに皮膚がん・乳がんだと診断され、数多くのブログや闘病記を読んでみたら、一定数の患者はがんとは闘わないという選択をしていることを知りました。

そこでこの機会に私も近藤誠医師のセカンドオピニオンを是非聞いてみたいと思いました。実はこの時まで、私は皮膚がんも乳がんについても誰にも相談せずにひとりで通院していました。夫はちょうど仕事が繁忙期でしたし、母は心配性のあまり倒れて入院でもされたら私の負担が増えるだけなので、誰にも言わないでおきました。

ただ、近藤誠医師と面談予約が取れたので、こんな機会も滅多にないだろうと思って弟に声をかけて一緒に行くことにしました。姉弟なので、弟もいつがんに罹患するかもしれないので、何かの形で役に立つかもしれないと考えたからです。

この時、近藤医師は、画像データなどをじっくりと見たのちに、神奈川県のある病院の医師宛に、その場で万年筆でサラサラと、次のような紹介状を書いてくれました。

医師名様
病院名外科
還暦子様を紹介いたします
左乳がん+腋窩リンパ節転移
温存手術をお願いします
日付
近藤誠

この紹介状で私が理解したのは、『患者よ、がんと闘うな』の著者であっても、私のケースは手術はした方が良いと判断したということでした。近藤医師は温存手術を推奨し、がんセンターでは全摘手術が推奨されていましたが、いずれにしても手術をした方が良いということであれば、皮膚がんの治療記録もあるがんセンターでの手術を選択しようと思いました。

実は先日PET画像を初めて見た時、私は医師にiPhoneでこの画像を撮影してもよいかと許可を得た上で写真に取り、その後、写真を繰り返し眺めながら、自分の胸のがんやリンパ節に転移したがんの大きさを何度も確認していました。素人ながら、私のがんは2〜3cmなどという小さなものではなく、幾つも点在していて全体的にかなり大きかったので、全摘手術の方がいいように感じていたのでした。

5. 手術と入院生活

入院・手術が決まったところで、ちょうど繁忙期が終わったばかりの夫にも急ぎ話しをし、これからしばらくは頻繁に通院することになることを考え、通院に便利な場所に引っ越すことにしました。幸いというか、悪性黒色腫の手術をしたので、がんの診断給付金などの保険金がおりていたため金銭的には助かりました。

また今後の治療期間を考えて、職場には休職届を提出し、引き継ぎ作業を無事に終えて入院しました。

夫によれば、私の手術時間は通常の2〜3時間を大幅に越え7時間近くもかかり、夜10時もまわり、誰もいなくなった待合室で心細くなりながら手術が終わるのを待っていたということでした。夜遅くに医師からは「すべて取りきりましたからご安心ください」と言われたそうです。心配をかけました。

翌日、意識が戻って、手術痕を見た私は率直に言って驚きました。私の場合、あまりにもがんの範囲が大きすぎたためか、鎖骨の2cmほど下から縦に20cm、横に15cm程度がえぐり取られていたからでした。部分的に肋骨の形がわかるほどでした。よほど丁寧にがんをすべて摘出してくれたのだと思うと同時に、これでは手術不適応と思われたのも無理はないと思いました。

手術後に回診に来てくれた担当医は「還暦子さんの場合はこれからじっくりと薬物治療になりますね」と何度も仰いました。薬物治療とは抗がん剤のことを意味しました。長時間に渡って立ちっぱなしで手術をしてくださって、本当にありがたいことでした。

手術の翌日から患者は皆んな廊下に並んで、看護師さんの指導のもと腕を上げるリハビリが開始しました。ここできちんと行わないと将来腕が上がらなくなるということでした。またリンパ浮腫防止のリンパマッサージの指導も受け、全員で練習しました。

この時、リハビリ担当の看護師さんからは「ブログ体験記はくれぐれも読まないように」と注意を受けました、理由は、ブログは専門知識のない患者さんが書いているので内容が間違っていることが多く、また乳がんはタイプ別に治療法も違うのでブログ内容を鵜呑みにしてはいけないからだということでした。何度も繰り返し注意されましたが、私はお構いなしにiPadで入院中も読み続けました。

私は4人部屋にいましたが、同室のメンバーはもちろん、両隣室のメンバーともすっかり仲良くなって、給食トレイを持ち寄って一緒に食事をしたり情報交換をしたり毎日おしゃべりしていました。この時の「がん友」とは8年経った今も仲が良く、LINEグループで情報交換したり、定期的に食事に出かけたりしています。

看護師さんが言うには、「男性の胃がん患者さんはほとんどいつもカーテンを閉め切ってシーンとしているのに対して、乳がん患者さんはいつも皆んなで賑やかにおしゃべりしているのよね」とのことでした。

私は毎日リハビリに励みましたが、そもそもがんが大き過ぎて残った皮膚がわずかしかなかったため、腕というか肩というか胸というか、全体が常に引きつれている状態でした。結局、形成外科の医師とも相談の上、翌年の2015年夏に再びがんセンターに入院して、自分の下腹の皮膚を切り取って、胸に移植する手術をしてもらいました。おかげで今では腕は左右差がないほど自由に動かすことができます。

入院生活は少しも退屈することなく、院内でのいろんな講座に出席しました。例えばウィッグ講座では、まず最初に部屋にずらりと並んだウィッグを前に、講師がこの中から一番値段の高いものを選んでみてくださいと言われました。軽く100個以上あるウィッグを見つめ、皆んなで「え〜、どれだろう」などと迷いながら答えました。全員が外れました。

講師によると、ウィッグの値段なんて本当に見た目ではわからないものだから、これから選択するときに、値段の高いウィッグの方がバレなくて良いだろうなどと思う必要はないのです、値段に捉われずに自分に合ったもの、好みのものを選びましょうとのことでした。

他にも抗がん剤治療によって、頭髪だけでなく、眉毛や睫毛も抜けることが予想されるため、抜けてしまったあとの眉毛の描き方講座や、つけ睫毛講座などもありました。私は生まれて初めてつけ睫毛をつけてみて、目がパッチリになって我ながらビックリしました! 人工乳房の選び方講座なども開催されました。

入院生活では、周囲の人たちがそれぞれのがんのタイプや症状、その人の性格や環境により、今後どのような治療を選択していくのかについて多くの情報交換をする場となりました。

2週間近く入院したあと退院し、しばらくはほぼ毎日浸出液を抜きに通院しました。引越ししておいて本当に良かったと思いました。

実は退院したその日に私が最初にしたことは、特製ブラジャーの採寸に専門店に出かけたことでした。乳房再建情報はたくさんありましたが、1年後に皮膚移植をしなくてはならないほど胸がえぐり取られているというケースは見つけることができず、どうしたものかと思いましたが、調べているうちに専門店を発見し、退院日に合わせて予約を入れておきました。本当に有難いサービスでした。

6. 病理結果と乳腺内科

手術からおよそ1ヶ月経った頃、乳腺外科の主治医と面談があり、病理検査の結果が伝えられました。冒頭にも述べましたが次のような結果でした。

浸潤性入管癌、直径5.1cm、範囲は12x9cmの広範囲に及んでおり、核異型度3、ER3+、PgR3+、Her2−、Ki67は14.9%、リンパ節転移は21個中11個。

手術後の推奨治療は、化学療法、ホルモン療法、放射線治療であると説明されました。化学療法とはいわゆる抗がん剤による薬物治療のことです。そのため今後しばらくは乳腺外科から乳腺内科に担当医が変わるということで、次はご家族と一緒に来てくださいと言われました。この時点では、ステージがいくつなのかは説明されませんでした。聞いてもはぐらかされてしまいました。

初めての内科医との面談の際は、夫と2人で話を聞きに行きました。

手元にその時の面談票の記録が残っています。まず1行目に書かれているのは、「再発しやすい(肺・骨に転移)」「完治困難」という文字です。ご丁寧に「再発」の文字の下にはアンダーラインが引かれています。

2行目には「大きさ5.1cm(全体として12cm大)」、3行目には「リンパ節転移11個」とあり、この11個の文字の下には3重にアンダーラインが引かれ、その内1本は波線で強調されていました。そしてその他の情報が細かく記されて、最後のまとめとして「今後の再発リスクはかなり高い(術後無治療だとほぼ再発します)」とあり、「ほぼ」の文字はまた波線で強調されていました。

その後、抗がん剤治療の方針、AC治療を4回、パクリタキセルを12回に続き、放射線治療を5〜6週間、ホルモン剤を5年間行うことによって、「再発リスクを半分程度にまで下げられる」ことを説明されました。

この時私が何を思っていたかというと、夫がどれほどショックを受けているかということばかりでした。私自身は、これまでのグリグリの感触や、主治医とのチグハグなやりとり、実際の術後創傷、それに多くの書籍やブログである程度自分の置かれている状況を理解しているつもりでしたが、夫はひと言も発することができないほどショックを受けていることが伝わってきました。

性格は人それぞれですが、私はすべてありのままの情報を提供してもらうことによって安心できるタイプでした。その情報が仮にどのようなものであろうとも —— それこそ余命宣告を受けたその足で自動車販売店に寄ってジャガーを買った佐野洋子のように ——  知ることが安心に繋がるタイプでした。

悪性黒色腫と診断された時も、正確な病名を知って安堵しました。私は一連のがん治療において不安に駆られたことや、ましてや泣いたことなど一度もなく、最も良い選択肢はどれだろうと常に考えていました。生まれつきそのような性格のようです。

もし側に夫がいなければ、抗がん剤を選択しない場合のリスク、放射線を選択しない場合のリスクなど細かく質問をしたいと思いましたが、夫の性格も熟知しているので、これ以上ショックを受けないようにと質問は控えました。

いくら医師のアドバイスによるものだったとはいえ、家族同伴で来たことを後悔していました。とはいえ、これだけのことを自分の口から夫に説明するよりは良かったのかもしれないとも思っていました。いずれにしても、夫にこれほど心配をかけることになってしまって心から申し訳ないと思いました。

その時もステージについて質問しましたが、またもやはぐらかされました。周りの「がん友」はそもそも外科の担当医もまちまちでしたが、内科医もそれぞれで、自分はどんな治療を推奨されたかを情報交換し合っていました。私の面談に先立つ外科医・内科医との面談で、皆んなステージ1とかステージ2aなどと教えてもらっていました。ステージ3cは、さすがに医師としても告げにくかったのでしょうか。

今日の説明をもとに、来週までにご家族でよく考えて来てくださいということで面談は終了しました。

7. 病理組織診断報告書

実は、先日の外科医との面談の際、ステージをはぐらかされた私は、近隣のクリニックで高血圧の薬をもらいたいので診療情報提供書を出してほしいとお願いしました。もちろんそれは本当のことでしたが、内科医との面談のあとで発行された診療情報提供書をクリニックに提出する前に自分で開封して読んでみました。

そこには、詳細に渡る「病理組織診断報告書」も同封されており、ステージも記載されていました。ステージは3cとありました。術前はステージ2bと予想されており、手術直後はステージ3aとなり、病理検査の結果、ステージ3cに変更されていった経緯も載っていました。ここで初めて自分のステージを知りました。

また「切片14にて深切り切片を作成検討したところ、腫瘍(浸潤癌成分)は切離面に露出していないが極めて近接している(1mm以内)」という情報もありました。肋骨がわかるほど深くえぐり取るように手術してもらったにもかかわらず、それでもギリギリのところまで浸潤癌成分がきているのだと知りました。

さらに所見の部分には「多数のリンパ管侵襲を介して周囲に広がっている。クロマチンの増量した腫瘍細胞が小集塊構造をなし、一部では繊維血管性の芯を欠く微小乳頭状の胞巣を形成して inside-out growth patternを呈し、脂肪酸まで浸潤性に増殖する像を認める」などという文言もありました。

inside-out growth patternとは何だろうと調べてみると「裏返し発育」だとあり、「invasive micropapillary carcinoma(浸潤性微小乳頭癌)」の特徴であることがわかりました。そう思って改めて報告書をよく読むと、診断名に、浸潤性腺がん、硬がんと並んで、浸潤性微小乳頭がんと英文で書かれていました。高度なリンパ管侵襲を伴う、調べれば調べるほど予後の悪い性質のがんであることがわかりました。

こうやって患者が勝手に調べたり、思い込んだり、誤った情報と勘違いしたりすることを防ぐ意味でも、一般に診療情報提供書は封がされているのかもしれませんが、患者自身が自分の本当の病状を報告書レベルで知ることは(患者にもよるのかもしれませんが)重要なことだと私は考えています。

事実をありのままに知りたいという欲求は、今後治療方針を決定していく患者にとって当然のことではないかと私は思うのです。

尚、コピーを取った後に、診療情報提供書はそのまま開封した封筒に入れて近所のクリニックに提出しましたが、特にお咎めはありませんでした。

8. オンコロジストのブログ

私は乳がんと診断されて以来、(看護師さんのアドバイスにも関わらず)数え切れないほどの書籍やブログを読み続けて来ましたが、ステージ3c、リンパ節転移11個という患者の体験には、なかなか遭遇することはありませんでした。

そんな時に出逢ったのが、浜松オンコロジーセンターの渡辺亨院長のブログ、2010年5月23日の「姉を看取って考えたこと」でした。

2000年6月に姉は右乳癌を自分でみつけた。神田和弘先生にお願いし乳房全摘手術を受けた。ER陽性、PgR陰性、HER2陰性の浸潤性乳管癌グレード2だった。腋窩リンパ節転移は12個陽性であった。この時点で、近い将来再発することは覚悟せざるを得なかった。術後は、まだNSASBC02が走っていなかったので、化学療法AC(アドリアマイシン+シクロフォスファミド)を4サイクル、パクリタキセルを4サイクル行った。
(中略)
2002年5月、左鎖骨上リンパ節転移に再発、来るべき時が来たと思った。肝転移、骨転移 もあり、治ることはないけれど、QOLを高めて、症状があればそれをやわらげ、いずれ出るであろう諸症状の出現を先送りし、そして、少しでも長生きしてもらいたい、という思いでの、再発後の治療が始まった。
https://watanabetoru.net/2010/05/ より引用 (太字は引用者)
✳︎著者より引用の許可をいただきました

リンパ節転移が10個以上で、ER陽性、HER2陰性の浸潤性入管癌というのは私と同じでした。違うのはPgRが陰性(私は陽性)だけでした。リンパ節転移については、通常0個、1-3個、4-9個、10個以上と分類されていますが、10個以上というケースは様々な論文においても、わずかに幾つかの例を見かけただけでした。

乳がんの専門医がご家族の治療で「この時点で、近い将来再発することは覚悟せざるを得なかった」と表現なさったことは、私にとって大きな意味を持ちました。実際に院長のお姉さんは、私に提案されているのと同じ抗がん剤治療、つまりAC治療とパクリタキセル治療を行ったのちに、2年後に再発されました。

今後の私の人生は「再発を前提に考えていく必要がある」と感じました。専門医が総力を結集してご家族の治療に当たっても再発を防ぐことはできなかった以上、「再発ありき」で人生計画を立てていく方が、より充実した暮らしができるのではないかと考えました。

これまで読んできた様々な体験記を通して私が学んだことは、手術後の抗がん剤治療こそががん治療の本番だということでした。吐き気、ダルさ、味覚障害を筆頭に多くの方々が体調を崩し、脱毛による容姿の変化を受け入れ、痺れなどの長く続く後遺症に苦しんでいる治療を多くの体験記が教えてくれました。

手術前、手術後を通じて、私の場合は薬物治療は避けて通れないと思い込んでいたため、がんセンターから売り出されたばかりの「ウィッグな帽子」も入院中に購入していたし、つけ睫毛講座にも出ていましたが、再発ありきの人生を考えた時、抗がん剤治療は「今すぐに」始めるべきなのかを改めて自問自答しました。

報告書とブログをもとに、私は契約していたがん保険のサービスである「看護師によるがん相談」を予約して、抗がん剤治療の是非を相談しました。思いを言葉で表現していくうちに、思考が整理されて、自分は今後どんな人生を生きていきたいのかが次第にわかってきました。

子どもの頃から年越し蕎麦を食べる時に「細く長く」と両親が口にするのが不思議で仕方なかった私は、まだ再発しないうちから抗がん剤で体力気力を失うよりも、元気なうちに色んな所へ出かけたいと思いました。

幸い悪性黒色腫で支払われた保険金があるので、行きたいと思いつつ一度も行ったことのない国内外の街にどんどん出かけて、楽しい日々を送りたいと思いました。治るものなら治った方がいいけれど、治らないのなら治らないなりに最も充実した人生を送るには、抗がん剤治療の順番を変えた方がいいのではないかと思うようになりました。

心配で眠れない様子の夫にも「再発前提の人生」について相談しました。ブログで紹介されたケースのように再発まで2年間しかないのであれば、その2年間を大切にしたい、やりたいことを思いっきりしたい、仕事にも早く復帰したい、旅行にも行きたい、できる限り充実した人生にしたいと話しました。

夫は「自分が納得のいく人生がなによりだね」と言いつつも、再発を防ぐ可能性が1%でもあるならば、それに賭けてもらいたいという気持ちが、夫の言葉や表情の端々に滲み出ていました。

それでも翌週、夫と2人で再び内科医と面談し、今回は抗がん剤治療はしないことと、放射線とホルモン剤の治療はお願いしたい旨を告げました。この時医師に考え直すように説得されると予想していましたが、「病院推奨の標準治療はしないと決断されたのですね」と割とあっさり対応され、担当医はまた元の乳腺外科医に戻りました。

9. 放射線治療の誤算

それからまもなくホルモン剤服薬と放射線治療が始まりました。一般的には放射線治療は乳房温存手術の場合に推奨され、乳房全摘手術の場合には行いませんが、4個以上の腋窩リンパ節転移がある場合は、全摘でも鎖骨上リンパ節領域リンパ節を含めて放射線療法を行うことが推奨されていました。

私の場合は11個転移が確認されていたので、放射線治療をすることになりました。25日間連続で通院しなくてはならないのは面倒でしたが、そのために引越しまでしていました。多くの体験記を読んでも、抗がん剤と違って、放射線治療のつらさについて書かれたものはほとんど見かけませんでした。副作用は、日焼けのような症状で少しヒリヒリする程度と説明されていました。

私の場合抗がん剤治療をしないと決めていたため、せめて放射線治療くらいはしておかないと再発した時に後悔すると思い、放射線治療を受けることには何の抵抗もありませんでした。

ところが、最初の頃は順調だった放射線治療でしたが、半月ほど過ぎると、放射線が当たっている皮膚が赤く熱を持ち、服が擦れると痛みが出るようになってきました。そういえば私は若い頃から日差しに弱く、人一倍日焼けには気をつけて夏の海岸などには近寄らないようにしていましたが、まさか放射線治療で、こんな「やけど」症状に悩まされるとは思いもよりませんでした。

しかし治療が進み後半になる頃には、炎症は益々ひどくなり、左手をまっすぐに下ろすだけで、脇下の皮膚が擦れて激痛になりました。医師からは塗り薬も処方されましたが、皮膚はズル剥け、どんどんただれていきました。

仕方がないので毎日左手を腰に当てて生活することになりました。左手だけヤクルトを飲むポーズというのは我ながらおかしいのですが、半月以上は横断歩道を渡っている時も電車の中もスーパーマーケットの中でも、左手は常に腰に当てて生活していました。なんとなく楽しげなポーズなので、せっかくだから愉快な気持ちで過ごそうと心がけていたことを思い出します。

皮膚の炎症のピークは25日間の照射が終了して1週間程経った頃でした。少しずつ少しずつ治ってはいきましたが、左胸の皮膚全体の血管が浮き出てしまったように赤く変色し、皮膚そのものが固く乾いた別の物質に変化していくようでした。そもそも私の場合、手術後に皮膚が足りなくなっていて全体が引き攣れていたのですが、放射線治療のため引き攣れは一層ひどくなっていきました。

仲良しの「がん友」と照射後の皮膚を比べ合いましたが、ほんのり日焼けしている程度の友人と、私の変色変質した皮膚とは大違いでした。

翌年、前述したように下腹の皮膚を切り取って移植手術をしましたが、その時皮膚の足りない分を補うという当初の目的のほか、放射線でダメージを受けた皮膚を皮膚移植によって少しでも減らすという目的も追加されました。

これまで定期的に放射線科で診察を受けてきましたが、この8年間には何度か担当医が不在ということがあって、その時は代診の医師が診てくださいました。代診の医師はどの方も、私の患部を診ると必ず「写真を撮らせてもらってもいいですか」と聞きました。「珍しい症例なのですか」とたずねると異口同音に「初めて見ました」と言われました。

スポーツジムのお風呂や、温泉旅行の際には、今も左肩にタオルを掛けて周囲の人を驚かせないように気をつけてはいますが、数年経つうちに日常生活にはほぼ不便なことはなくなりました。ただ胸筋の分量が減ったためか、それとも皮膚の変質のせいなのか時々胸から脇にかけてこむらがえりをおこします。けれども定期的な鍼灸治療のお陰で、リンパ浮腫を起こすこともなく順調に回復しています。

時々自問自答するのは、もしも8年前に、このような症状が待っていることがわかっていたとしても、放射線治療を選択したか? ということです。私にとってはまったく予想外の展開でした。もしあらかじめわかっていたら選択しなかったかもしれないと思います。しかし再発した時にやっておけばよかったと後悔したくないのでそれでも選択したかもしれません。わからないというのが本音です。

10. セカンドオピニオン

私は抗がん剤治療は受けないことにして、放射線治療に入りましたが、夫は毎日とても不安そうでした。周囲の「がん友」の多くは抗がん剤治療に入り、脱毛が始まり帽子やウィッグをかぶり始めていました。抗がん剤を受けないことにして夫とふたりで京都や伊勢に旅行に出かけたりもしましたが、夫の表情を見ていると、本当にこれで良かったのかと悩みました。

病院には頻繁に通っていたので、医師や看護師や相談センターの方にも相談しました。放射線科の医師は「英文でよければ」と専門誌の論文のコピーをくださったり、がん専門看護師のおひとりは論文に出てくるグラフの読み方まで教えてくださいました。親身になって相談にのってくださる医師や看護師に支えられての日々でした。

私が知りたかったのは、リンパ節転移が10個以上ある患者が抗がん剤を受けた場合と受けなかった場合で、どれくらい再発率に違いが出るのかということでした。しかしながら10個以上の症例自体あまり多くないからなのか、抗がん剤治療選択の有無による統計は見つけられませんでした。

あれこれ調べているうちに、がん研の乳腺内科の医師が、がんの専門医を育成するために書いた薬物治療の教科書を見つけました。専門用語に溢れているその本は、その時点で出版から既に十年ほど経っていました。なんとか解読しようと試みる内に、そうだ、この医師にセカンドオピニオンをお願いしようと思うに至りました。

この時、せっかくセカンドオピニオンを依頼するなら他にも聞いてみようと思い、「がん研有明病院」以外にも乳がん治療に定評がある「聖路加国際病院」にそれぞれ予約を入れました。

最初に予約が取れたのは、聖路加の方でした。しかしどこでどう間違ったのか、私がお会いしたのは乳腺外科の医師でした。抗がん剤の相談なのに外科の先生に予約が入ってしまったのは今もって不可思議なのですが(私の依頼の仕方に問題があったのかもしれませんが)とにかくそのようなことになってしまいました。

外科医は、私の診断情報提供書に書かれている執刀医の名前を見ると「腕も確かな医師で、常々尊敬しています」と仰いました。そして「内科医ではないから抗がん剤についてはわからないけれど、標準治療を勧めます」と言われました。セカンドオピニオンは健康保険のきかない自費診療ですから、この予約ミスはまったくもって残念でした。

次に、今度はがん研へ出かけました。既に放射線治療の副作用が相当つらくなってきた頃で、左手を腰に当てて行きました。

教科書の執筆者ですから年配の男性医師だとばかり思っていたら、最初に20代だと思われる女性医師が出てこられたので、またもや予約ミスかと焦りましたがそんなことはなく、若い医師は「まずは私がお話を伺います」と仰いました。持参した書類や画像データをすべてお渡した上で、抗がん剤治療を迷っていると告げると、若い医師は「乳がんの治療は、手術、抗がん剤、放射線が標準治療であり、その内ひとつでもやらないとは治療とはいえません」と私のために嘆き、怒ってくれました。

私は彼女の憤る様子を見て、なんていい医師なのだろうと思わず感動していました。がんセンターではあっさりと抗がん剤治療はやらないということになったのですが、目の前の医師は、なんとか患者を翻意させたいという医師の情熱が感じられました。「せっかくの手術が無駄になるのかもしれないんですよ!」と拳を握りしめて私を説得してくれました。ありがたいことでした。

しばらくして、今度は教科書の執筆者、御大登場となりました。データや若手医師の入力した画面を眺めたあと、私の話にじっくりと耳を傾けてくれました。そして、うーんと何度も唸りながら、アドバイスをしてくださいました。

今、私の手元に、その時に御大ががんセンター宛てに書いてくださった「御返事」の写真があります。「このようなお返事を書きますがよろしいですか」と私に見せてくださった時に、封をする前に許可を得て私が撮影したものです。

病理検査では、特にリンパ節転移の個数が11/21であり、8-9割の再発リスクが見込まれます。従来のデータでは、8割の再発リスクが、抗がん剤を加えることにより、4割程度になると言われています。

抗がん剤を含めた術後補助療法を行った時、10年後の無再発生存率は20−40%と見込まれます。しかし、還暦子さんのサブタイプは、ER+, PgR+, HERS2(-)の luminal タイプですが、luminalAでは再発リスクが半分になるかどうかは具体的にはわかっていません

ただし、再発リスクが高い場合は、抗がん剤の効果が明らかではなくても、再発リスクを少しでも下げることを期待して、当院でもAC/T療法をお勧めしています。現段階では根治の可能性は高くありませんが、一旦遠隔転移が出現すれば延命治療となります。

通常は手術→抗がん剤→放射線療法の順番で行っていますが、還暦子さんの場合、放射線治療の後に、ホルモン療法を中断し、抗がん剤治療を開始することができます。術後の抗がん剤治療を行うか、行わずに現在の生活を送るかはご本人のお考えによりますが、パクリタキセルによるしびれが若干長引くことも想定されますが、術後補助療法は半年間と限られた治療になります。
「御返事」の一部抜粋 太字は引用者

御大は、抗がん剤をやった方がいいとも、やらない方がいいとも仰いませんでした。ルミナルAなので一般的には抗がん剤は用いないので「効果はわからない」、しかし再発したら延命治療になるだけなので、少しでも再発リスクを下げるためには抗がん剤に「期待する」しかないという説明でした。

説明を受けている間、御大の表情や考え込む仕草などすべてのボディランゲージが「これまでの経験からではなんともいえない、わからない」と仰っているように私には感じられました。けれども、それは私にはそう思えたのであって、すぐそばで聞いていた若い情熱的な医師には、少しでも期待できる治療があるならば治療方針を変更すべきだと伝わっていたかもしれません。

さらに、私が受け取ったもうひとつの大きなメッセージは、おそらく再発は避けられないだろうということでした。病理検査結果も、がんセンターの乳腺内科の意見も、経験豊かな乳がん薬物治療のエキスパートの意見も、皆が皆、口を揃えて再発はほぼ不可避との意見でした。

抗がん剤治療をするかしないかは、私には簡単な選択ではありませんでしたが、結局のところ、やはり抗がん剤はしないことにしました。

その理由は、そもそも再発リスクが8-9割ということは、逆の言い方をすれば何の治療をしなくても1-2割は再発をしないということ、さらに私の場合は放射線治療とホルモン療法は行うので、その割合はもう少し増えるだろうということ、そして予想されるように再発するならば尚のこと、残された無再発生存期間をより有効に使いたいと考えたからでした。

私にとっては、がんが再発するのかしないのか、私の残された人生があと30年あるのか3年なのかはわからないけれど、自分の人生をより楽しく充実させる選択をしたいと思ったのでした。

11. おわりに

冒頭に述べたように、乳がん手術から8年以上の月日が経ちましたが、私は再発することなく元気に毎日を過ごしています。

この8年間、手術後共に過ごしてきた「がん友」を数名失いました。私よりも低いステージで再発してしまった友人や出会った当初からステージ4だった友人もいました。彼女らと語り合ったあの濃密な日々は、生涯忘れることはないでしょう。

人の性格や環境は様々で、自分の傷口が怖くて手術から何ヶ月経ってもバスルームの鏡が見られないという人もいたし、子どもがまだ小さいからどんなつらい治療であろうとも絶対に耐えて必ず治してみせると決意していた人もいたし、もう生きなくてもいいと思うと少し楽になったという人もいました。

抗がん剤治療を選択した人もしなかった人もいたし、選択したけれども副作用が強すぎて途中で断念せざるを得なかった人も複数いました。またホルモン剤の副作用で苦しんでいる人もいました。乳房再建手術をした人もいました。摘出手術の時にインプラント用エキスパンダーを入れた人や、術後数年経ってからお腹や背中の自家組織で再建した人もいました。再建手術が終わってようやく自分の闘病生活に終止符が打てたと語った人もいました。

私自身は8年間一度も再建は考えませんでした。それは再発ありきというのが基本的な考えだったので、できるだけ見つけ易く、治療し易い状態にしておきたかったからです。職人さんの素晴らしい技術で製作された特製ブラジャーのお陰で、日常生活も快適です。数年に一度、買い替えでお世話になっています。

放射線治療の「やけど」症状が治まると、私は早速再発してからは難しくなりそうな海外旅行を計画しました。子どもの頃から憧れていたいたバレエをモスクワやサンクトペテルブルクの劇場で観たり、ウィーンでオペラやコンサートを観たいと思いました。ドバイやベトナムへも行ってみたかったし、国内にも行きたいと思っていた所はたくさんありました。

悪性黒色腫メラノーマの保険金が数百万円支給されていたので、このお金を使わないで死んでしまうのはもったいないとも思いました。いつか行ってみたい、いつかやってみたいと思っていたことにプライオリティをつけて、どんどん実現させていこうと思いました。とにかく「あぁなんて楽しい人生だったのかしら」と思ってこの世を去ることができるように生きていこうと思いました。

皮膚移植を経て、職場にも1年ほどで無事に復帰することができました。やりがいを感じる仕事を今も続けられています。この数年は旅行にはあまり行くことができませんでしたが、最初の3年間に保険金を使い果たす程度には夫と2人で旅行三昧の日々を送りました。たくさんの計画を実現させることができました。この note もやってみたかったことのひとつです。時々ダラけていると、再発した時に後悔すると思いつつも、ダラダラするのもまた楽しと気楽に過ごしています。

◇ ◇ ◇

ところで、なぜがんが直径5cm、拡がりが12cmになるまで気づかなかったかというと、私の場合、高校生の頃から何十年もの間、左胸には平べったいお煎餅のような「何か」がずっとありました。30代、40代にマンモグラフィーを定期的にやっても特に異常がなかったので、50代になってからは検査をサボっていました。なぜならその頃大きな子宮筋腫を幾つも抱えていて、ひどい貧血で日常生活がままならなかったからです。

診断画像によれば、グレープフルーツ大の筋腫が2個、オレンジ大が2個、それにピンポン玉大が4個、さらに小さい腫瘍を入れると10個か11個の筋腫があり、お腹もぽっこり出ていて、近所のクリニックから大学病院のほぼすべての医師から、口を揃えて直ちに子宮全摘手術をしましょうと迫られていました。

処方された鉄分の錠剤を飲みながら、てっきりがんになるなら子宮がんだと思い込み、乳がん検査にまで気がまわりませんでした。近所で開業している高齢の産婦人科医の「一昔前なら絶対に全摘を薦めたけど、痛みがないならこのまま閉経するまで様子見もありかもしれません」という言葉に賭けて日々を過ごしていたのですが、子宮筋腫に気を取られ過ぎていました。

50歳を過ぎて閉経した後、その医師が仰ったように子宮筋腫は徐々に小さくなっていき、特別な治療はしなくても今ではなんの問題なくなりました。しかし長い間乳がん検査をサボっていたツケは突然やってきました。しかも思わぬ形で。それでも手遅れ寸前で乳がん発見に至り、有難いことだと感じました。

◇ ◇ ◇

この夏には、近藤誠医師が逝去されました。国立がん研究センターの皮膚科、乳腺外科、乳腺内科、形成外科の私の担当医、またセカンドオピニオンをお願いした医師の方々は、この8年の間に、皆転勤で異動されていきました。十分な御礼も申し上げることなくお別れしてしまった医師もいました。看護師や相談センターの方々にも言葉に尽くせないほどお世話になりました。本当に心から御礼を申し上げます。

先日、8年目検診が終わったところで、がんセンターの現在の担当医から「還暦子さんは、もう来年の9年目検診まで来なくていいですよ」と告げられました。これまで3ヶ月毎の通院で腫瘍マーカー、CT、エコー、マンモグラフィーの定期検診の他、ホルモン剤を処方してもらってきましたが、これからは近隣の乳腺クリニックで処方してもらってくださいとのことでした。

ホルモン剤は当初の5年の予定から10年に変更となり、それが終わるともう通院は必要なくなるのだそうです。但し「10年経っても再発することはありますか」という私の質問に対する医師の回答は、「稀にあります」でした。

私の乳がんへの向き合い方には、専門家からみると異論もあるかもしれませんが、私の経験談が今後の治療に向けて悩んでおられる方の一助になれば幸いです。また「高危険群」と呼ばれる腋窩リンパ節転移10個以上のステージ3cでありながら、抗がん剤治療を選択しなくても、少なくとも8年間は無再発生存している実例をお知らせしたく、この note を書き記しました。


<再録にあたって>
今年の夏で、手術してからちょうど10年が経ちました。共に入院し、支え合っていた友人らとも連絡を取り合いました。あれから10年経ったのかと、今年は一際感慨深い夏です。亡くなった友人のことも、みんな「お空でどうしているかしら」とそれぞれが案じていました。

◇ ◇ ◇

私の母も乳がんでした。私が小学生の頃、私と同じように左乳房を全摘していました。私はよく母と温泉旅行に出掛けましたが、母はいつもごく普通に入浴していました。私は小学生の頃からそんな母を見ていました。

1980年頃のある晩、深夜放送を聴いていたら、長いこと温泉に入ることのできなかった乳がん患者たちが、皆んなで一緒に温泉宿に泊まり、他のお客さんが寝静まった夜中に温泉に入って、手を繋いで泣きましたという話が紹介されました。

私はその放送を聴いて、無性に腹が立ちました。そんなの、温泉なんて普通に入ればいいのに、勝手に入れないと思い込んで夜中に皆んなで手を繋いで泣くなんて、あまりにも悲し過ぎる、なぜもっと堂々としないのか、なにも恥ずかしがることなんてないのにと思いました。

それから30年以上の月日が流れ、私も乳がん患者の仲間入りをし、様々な患者の集いに参加するようになりました。すると「私は乳がん患者さんが温泉に入れるように、湯浴み着の普及活動をしています」と、ちょっと誇らしげに語る人がいました。その時も同じように腹立たしく思いました。

けれども、患者会で知り合った方々と親しくなり、個別に喫茶店などでお喋りするようになると、人は、その人の置かれた環境やその人の性格によって実に千差万別なのだと思い知らされました。

ある人は自分の手術痕を未だに見ることができない、どうしても見られないのでお風呂場の鏡は取り外してもらいましたと言いました。自分でも見られないのだから、家族にも、もちろん他人にも絶対に見せたくないと仰いました。

私自身は、手術の翌日から、記録のために自分の手術痕を毎日iPhoneで撮影していましたし、退院後のスポーツジムのお風呂でも、旅先の温泉宿でも、ごく普通に入浴していましたから、その方の話には衝撃を受けました。

私は、自分のものの見方はなんて一方的だったのだろうと深く反省しました。夜中に、皆んなで手を繋がないと温泉に入れなかった方々の気持ちを私はわかろうとしなかったばかりか、腹立たしくさえ感じていたのでした。

◇ ◇ ◇

がんと診断されると、手術や抗がん剤治療など様々な選択肢が提示されます。付け焼き刃の医学的知識を総動員して、それをひとつひとつ選択していくのは簡単なことではありません。私は抗がん剤治療をすべきかどうかで散々悩みました。

結局、私の場合は抗がん剤治療はしないことにしましたが、このような選択もその人の置かれた環境によって(例えば小さな子どもがいるとか)、そしてまた、その人の性格によっても自ずと変わってきます。

その選択がベストなのかどうかは、人それぞれなのだと私は思うようになりました。それは医学的にみて首を傾げるようないわゆる民間療法であっても、その人がこれに賭けたいと思うのならば、それがその人にとってのベストチョイスなのではないかとも思っています。

がんは、相変わらず多くの生命を奪う怖しい病気です。しかし、そんな中でも、
「キャンサーギフト(がんがくれた贈り物)」という言葉があります。私もがんになったおかげで、新たな気付きや、大切な友との出会いがありました。

私の経験談が多少なりとも、皆さまのお役に立てればと願っています。


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