256.86年W杯
現在カタールのドーハで行われているサッカーのワールドカップで、日本は強豪ドイツに続き、強豪スペインにも逆転勝ちし、決勝トーナメントへの進出が決まりました。日本中が歓喜に沸いています。
今では誰もが知っているワールドカップですが、私が初めてサッカーのワールドカップの熱狂を目にしたのは今から36年前の1986年6月のことでした。私は前年から、子どもの頃から憧れていたフランスに滞在していました。この頃はサッカー好きの一部の愛好家を除いて、日本においてはサッカーはそれほど人気スポーツではありませんでした。Jリーグが開幕する7年前でした。
あの頃の日本では、観るスポーツといえば圧倒的にプロ野球でした。シーズン中は毎日のようにテレビ中継があり、時折延長戦になると玉突きのようにドラマなどの放映時間が変更になったりしていました。電車の中でもスポーツ新聞の大きな活字と写真が前日の試合結果を伝えていました。シーズンオフ期間もキャンプ便りが届けられ、ドラフト会議の成り行きがニュース番組でも時間をかけて報じられていました。
1985年秋には、阪神タイガースが21年振りに優勝し、甲子園を沸かしたPL学園の桑田選手と清原選手のドラフト獲得が大きな騒動になっていました。
後に大リーグでトルネード旋風を巻き起こす野茂英雄投手も、1986年時点では3月に高校を卒業して新日鐵に入社したばかりで、プロ野球選手にもなっていませんでした。イチロー選手もまだ中学生、松井秀喜選手はまだまだ小学生でした。そんなわけで、多くの人々の関心は大リーグへ向かうこともなく、プロ野球一色といっても良い状況でした。
それでも大相撲では昭和の大横綱と呼ばれた千代の富士が活躍し、ゴルフの青木功、テニスのマッケンローらも人気がありました。しかし、サッカー選手の名を挙げてみよと言われても、熱烈なサッカーファンはともかく、私など多くの一般人にとっては、メキシコオリンピックで活躍した釜本選手の名を挙げるのがやっとというところでした。後にJリーグで活躍する三浦知良選手も、この時はまだ19歳で、ブラジルにいました。
◇ ◇ ◇
1986年6月のある日、私は日本人の友人と2人でフランスの小さな田舎町を歩いていました。残り少ない滞在中、休みの日にはガイドブック片手にあちこちの近郊の街を歩き回っていたのでした。
いい天気の日で歩き回ってくたびれたので、少しカフェで休憩しようと、枝々が張り出して木陰を作っているテラスに腰掛けました。フランスではテラスに座ると店員さんが目ざとく注文を取りに来てくれるのですが、その日はなかなか現れませんでした。
周囲を見渡しても、私たち以外にはお客さんはいないようなので、少し待ったのちに店内に入って注文をすることにしました。
カフェの薄暗い店内に入ると、7、8人の中年の男たちが全員カウンターの中に置かれたテレビ画面を見つめていました。中にはカウンターに両肘をついて身を乗り出している人もいました。誰が店主なのか、誰が店員なのか、仲間なのかお客さんなのか分かりませんでした。誰ひとりこちらを振り向くことなく、テレビ画面に集中していました。
そこで私は「すみません、コーヒー2つお願いします」と告げました。すると全員の背中から「ちょっと静かにしててくれ! 今はそれどころじゃないんだ!」と無言のメッセージが送られてきました。
彼らはみんな中腰になっていて、今にも画面に飛び掛からんばかりの姿勢でした。全員の視線は電子レンジほどの大きさのテレビ画面に釘付けとなっており、そのあまりの熱量によって画面はとろけそうでした。
テレビ画面の中には、緑色の芝生の上を駆け回っている選手が何人か映っていて、どうやらサッカーかラグビーかそのようなスポーツ中継のようでした。
なんだかよくわからないけれど、とにかくテレビ画面から一瞬でも目を離すことはできないらしく、誰の耳にもコーヒー2つという注文が聞こえていないのは明らかでした。
殺気立つ雰囲気に圧倒されて仕方がないので表へ出ました。非があるのはむしろ私たちの側と言わんばかりの対応に友人と顔を見合わせましたが、それでもポロシャツやTシャツがたくし上がり、背中が出ているのも気付かずに臨戦体勢を取っている彼らの後ろ姿は、どこか憎めない愛嬌がありました。
その日は、人通りもなく、他のカフェも見当たらないので仕方なく帰ってきました。頼めないとわかったら、余計に喉が渇いたような気分になりました。
その時の私には、彼らが観ていた競技がサッカーなのかラグビーなのかの区別もついていませんでしたが、あれはメキシコで行われたワールドカップのグループCの予選で、フランスが対戦した、カナダ戦か、ソ連戦か、ハンガリー戦のいずれかでした。彼らの必死さから想像すると、3ー1で勝ったハンガリー戦ではなく、1ー0で勝ったカナダ戦か1ー1で引き分けたソ連戦だったと思われます。
◇ ◇ ◇
それからしばらくしたある日、いつものように下宿先のアパートにいたら、突然、あちこちで車のクラクションが高らかに鳴り響き、爆竹やら、ラッパやらの大音響が聞こえて街が騒然となりました。何事が起きたのかと窓の外を見てみると、次から次に家々から雄叫びを上げ、拳を突き上げ、あるいは踊りながら人々が出てきました。何人かは国旗をマントにして、街に飛び出して行きました。
戦争でも始まったのかと思って、一緒に暮らしていたフランス人のルームメイトに一体何が起きたのかと聞いてみたら、「あら、あなたは遠い国から来たので知らないのね」という感じで、「La Coupe du mondeよ、フットボールの」と教えてくれました。
ラクープデュモンド?! その頃の私はワールドカップという言葉も概念も知らなかったので、フランス語でそのように言われてもなんのことだかさっぱりわかりませんでした。その時の私にはフットボールとサッカーが同じものだという認識もなく、フットボールと聞いて、アメフトが脳裏に浮かびました。この前のカフェの光景とも結びつきませんでした。
しかしとにかく、それからの深夜にかけて街中大騒ぎには驚かされました。大通りには顔を青白赤の三色旗の色に塗り分けた人々が、車に箱乗りになって雄叫びを上げ、脱いだTシャツを振り回し、国旗をまとい、あるいは国旗を振りかざして奇声を挙げ、クラクションを盛大に鳴らしまくり、国歌の大合唱が続きました。
それは決勝トーナメントのラウンド16でフランスがイタリアに勝った時の大騒ぎでした。
日本のプロ野球でも優勝が決まるとあちこちで歓声が上がり、祝杯が交わされ、デパートの優勝セールが行われましたが、街中がこれほどまでの大騒ぎになることはありませんでした。
ところが、それからまた数日して再び街中が大騒ぎとなりました。今度は準々決勝でフランスがブラジルにPK戦で勝利したのでした。先日に増して喜び大爆発!という状態で、興奮する人々に誰も手がつけられない感じでした。私にとっては、このように全身で歓喜を表現するのを目にするのは初めてでした。
オリンピックの国別競技で優勝しても、日本で人々が家から飛び出して来て街中が騒然としたという記憶は私にはありませんでした。フランスでは応援も殺気立っていましたが、喜びの表現すらも殺気立っていました。
今回のワールドカップ・カタール大会でも、勝利に酔いしれた若者たちが渋谷のスクランブル交差点や大阪の道頓堀に繰り出している様子が報道されていますが、1986年のフランスの地方都市の、一般の住宅街で見たあの噴き出すような歓喜にはただただ驚きました。
この時、1986年のワールドカップを制したのはアルゼンチンでした。大会MVPに選ばれたマラドーナ選手による準々決勝イングランド戦での「神の手」ゴールは、この後も長く語り継がれることになりました。まるでレンガを下から突き破るスーパーマリオのようなゴールでした。
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1990年のワールドカップ・イタリア大会には、日本はアジア予選で敗退し、出場することはできませんでした。
日本にもプロのサッカーリーグを設立しようと、1991年には「Jリーグ」という名称が決まり、そして1993年にJリーグが開幕しました。しかし1994年のアメリカ大会への出場を目指して行われた最終予選では、あの「ドーハの悲劇」が起きました。
しかしその後、1998年のフランス大会に念願のワールドカップ初出場を果たし、それからの日本チームは、2002年日韓共同開催、2006年ドイツ大会、2010年南アフリカ大会、2014年ブラジル大会、2018年ロシア大会、2022年カタール大会と連続出場を続けています。
そしてついに今年は快進撃で、「ドーハの歓喜」に国中が沸き上がっています。1986年の何も知らなかったあの日々が、時の彼方で雲散霧消していくようです。