206.七夕祭と傷痍軍人
私が両親に手を引かれて平塚の七夕まつりに連れていってもらったのは、昭和37年(1962年)の夏のことでした。私にはちょうど三歳違いの弟がいるのですが、弟はまだ生まれていませんでした。私はまもなく三歳になるところでした。
例年大勢の見物客で賑わう平塚の七夕まつりですが、今年は昨年に引き続き通常開催は中止となり、開催方法を見直し、大幅に縮小して実施されることになりました。湘南ひらつか七夕まつり2021のサイトを見ると、地元の方々がどれほど楽しみにしておられたのかが伝わってきます。関係者の皆様のお気持ちを思うと、二年続けてこのような決断はさぞ苦渋の選択だったことと拝察します。
今年の「湘南ひらつか七夕まつり2021」は、湘南スターモールなど中心商店街での交通規制は実施せず、大型飾りやパレード、露店出店等は行わないものの、7月1日~30日を中心に、七夕の雰囲気を感じる装飾などが平塚駅北口中心商店街ほか各所で実施されるようです。
平塚市ホームページには「七夕まつりのあゆみ」として次のような説明が書かれています。
昭和26年(1951年)の第1回七夕まつりはのべ10万人の人出で始まり、翌年の第2回目にはのべ13万人、第3回目にはのべ20万人と増えていき、昭和37年(1962年)の人出はのべ160万人となり、昭和38年(1963年)の人出は、遂にのべ200万人となっていきました。
「平塚七夕まつり竹飾りが仙台七夕に比肩されるようになったり(1961年)、国際色を増してきた七夕まつりには、各国の外交官や在日米軍首脳が来日したほか米国の高校生も多数見物に訪れたり(1962年)、国道筋約1kmに303本の竹飾りが掲出されたり(1963年)」したのはこの頃のことです。
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その日、幼い私は両親に連れられて平塚の町へ出かけました。私の家族は昭和36年(1961年)に、父の転勤で大阪から東京の郊外にやってきたばかりでした。両親は、仙台の七夕まつりにも並び称されるようになった平塚の七夕まつりを是非見てみたいと思ったのでしょう。
私は手を引かれれば、ようやく一人でそれなりの距離が歩けるような子どもでした。両親はきれいな飾りを見せれば私が幼いながら喜ぶと思って連れてきたのでしょう。
頭上には色とりどりの七夕飾りが風にひるがえって、それはそれは美しい光景でした。キラキラと輝くプラスチックの飾りを見たり、頭上にいくつも垂れ下がっている、向こうが透けて見える網目のついた飾りを触りたいという欲求を思い出します。
ところがなにかの拍子で、その七夕まつりの道の両側には、戦争で手足や眼球を失った傷痍軍人が白装束でずらりと並び、アコーディオンやバイオリンを弾いていたのを目にしたのでした。黒メガネ(サングラス)をかけている人も大勢いました。私の目に映っただけで少なくとも百人はいたでしょう。今日とは違い粗末な義手や義足をつけたりつけなかったりして、もの哀しい曲を奏でていました。
昭和37年の七夕まつりは終戦から17年も経っていませんでした。2011年9月11日の米国同時多発テロによって世界貿易センタービルが崩れ落ちた時から今年で20年ですから、それよりも短い年月しか流れていませんでした。あの頃はまだまだ人々の暮らしの中に、戦争の傷痕は深く残っていました。
傷痍軍人を見ると、私は突然大声で泣き叫んだのだそうです。私は自分自身が泣き叫んだという記憶はないのですが、あの幾つかの光景は、まぶたの裏にしっかりと焼き付いており、半世紀以上経った今も忘れることはできません。私の人生における最初の記憶のひとつです。
私がよほど泣き叫んだせいか、両親はひきつけでも起こしたら大変だと思い、七夕まつりの人混みから離れて幼い私を落ち着かせようとしたそうです。けれども私はいつまで経ってもまったく泣き止まず、このまま泣き死んでしまうかもしれないと本気で心配するほどのことだったといいます。
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実は私はかなり大人になるまで、「平塚」という地名や「七夕」という言葉を見たり聞いたりするだけで、全身が硬直するほど反応し続けました。専門家に診てもらったことがあるわけではありませんが、見渡す限りずらりと並んだ白装束の傷痍軍人を目にし、あのもの哀しい曲を耳にして、幼い私はよほどのショックを受けたのだと思います。
おそらく、まだ物心もついたかつかないかわからない小さな子どもには、戦場の悲惨さがダイレクトに伝わったのでしょう。
母は、私が成長していく過程で、傷痍軍人とは戦争に行って大怪我を負い、しかも満足な補償もなく、日々の暮らしをあのような曲を演奏して暮らしていかざるを得ない人々だと説明しました。私はそのような説明を聞き、傷痍軍人のことをとても気の毒に思い、一体自分に何ができるだろうと考えました。しかし、そのように頭で考えていることと、受けたショックは別でした。
私の記憶が始まる昭和30年代後半、親に連れて行ってもらった新宿の駅前や伊勢丹の角、また地元の駅前でも一人、二人、あるいは数人の傷痍軍人が街角に立って、アコーディオンを弾いている姿が記憶に残っています。
しかし、あれだけ大勢の傷痍軍人が一堂に会するのを見たのはあの日だけでした。おそらくのべ160万人も集まる大きなお祭りだからと、県内全域や東京や近県からもわざわざ足を運んだ方々もおられたのかもしれません。
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傷痍軍人について、私は学校などで正式に学んだことはありません。実は今回この稿を書くまで、今では傷痍軍人という呼び方はせず、戦傷病者と呼ぶようになっていることさえ知りませんでした。
2014年、今から約6年前に、NHKのETV特集では「戦傷病者の長い戦後」と題した番組が放送された際、傷痍軍人については次のように紹介しています。
なんとも胸が痛みます。
私は傷痍軍人についてほとんど何も知らずに大人になってしまいました。また、かなり大きくなってからは、「中には、傷痍軍人でもないのに白装束で物乞いをしている怪しからん奴も含まれている」などという言説も見聞きしたことがあります。
この番組放送からもさらに6年経った2021年、この戦争の記憶はいよいよ歴史の中に埋もれようとしています。
尚、この番組は、公開ライブラリーのNHKアーカイブスで観ることができます。
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このところ連日、今度の東京オリンピックは開催か中止か、あるいは無観客か有観客か、入れるとしたら観客の上限は何人なのかが議論になっています。今後、引き続き行われるパラリンピックについても、同様の議論がなされるものと思われます。
ところで、前回1964年の東京パラリンピックで選手宣誓をした青野繁夫は、先の大戦で負傷した傷痍軍人でした。
青野繁夫は、名誉の負傷・脊髄損傷により、四肢の動きが本人に全く感じらない完全麻痺となり、強烈な痛みに耐え続けました。故郷に帰って五年ほど後に小田原市にある国立箱根療養所に入所することになり、そこで医師から勧められたのがパラリンピックへの出場でした。
その青野繁夫は、努力に努力を重ね、選手宣誓の大役を担い、さらに大活躍をして、二つの銀メダルに輝きました。
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私が最後に傷痍軍人を見かけたのは、昭和51年(1976年)の秋に、高校の修学旅行で熊本城へ行った時でした。バスから降りて、みんなでお城の石垣に沿って歩いていたら、そこに白装束の二人の傷痍軍人がアコーデオンを弾いていました。
私は全身が硬直しました。そして同時に涙がこぼれそうになりました。クラスメイトたちの目には、二人の傷痍軍人がどのように映ったのかわかりませんが、私にとっては平塚のあの日の光景と同じように、決して忘れられない光景となりました。今も尚、あの二人の姿は瞼の裏に焼き付いています。
私は、まだ三歳にもならない小さな子どもだったとはいえ、戦場で負傷し、大変な思いをして生きてこられた傷痍軍人を怖がり、目の前で泣き叫んだということに、長い間ずっと罪悪感を抱き続けてきました。
今年は、戦後76年。平塚の七夕まつりや、東京パラリンピックという言葉の響きの中に戦争の影を感じる人は、もうほんのわずかになってしまいました。
私はかろうじて、わずかではありますが、子どもの頃の記憶が戦争と間接的に結び付いている世代なので、罪滅ぼしを兼ねて、傷痍軍人/戦傷病者のことを次の世代に少しでも語り継ぎたいと思い、この稿を書きました。
来年の平塚の七夕まつりが再び大勢の人々で賑わうことを願い、パラリンピックの選手が自己記録を更新することを願い、なにより平和を願い、行動したいと思います。