208. 東京五輪1964
昭和39年(1964年)10月10日、東京五輪の開会式が行わました。しかし当時五歳だった私には五輪そのものについての記憶はほとんどありません。私が記憶しているのは、五輪周辺のことがらや、大人に聞いたことや、あとになって振り返った話などです。
東京五輪といって、当時のことで私が真っ先に思い出すのは、できたばかりの新幹線に乗って、大阪の祖父母が東京郊外の私の家に遊びにきてくれたことです。当時の私には、五輪 ≒ 新幹線のようになっていました。幼稚園では皆んなでよく新幹線の歌「はしれちょうとっきゅう」を歌ったものでした。ダンゴっぱなの愛らしい0系新幹線、当時は未来の国から来た最新鋭の乗り物のように感じられました。目の色は「ひかりは赤」「こだまは白」と覚えました。
次に連想するのは、その祖父母に「ナルちゃん人形」を買ってもらったことでした。「ナルちゃん」というのは、今の天皇陛下の名「徳仁(なるひと)」にちなんだ愛称です。あの頃、皇太子妃美智子妃殿下が公務で米国訪問なさる際、生後七ヶ月だった殿下のお世話をしてくれる人に託された細やかな育児メモが「ナルちゃん憲法」として広く知られていました。
「ナルちゃん人形」とはその愛称をつけて皇太孫殿下御誕生記念に作られたお人形のことでした。私が買ってもらったお人形は赤ちゃんくらいの大きさで、赤い上下の服を着ていました。五歳の私は「ナルちゃん人形」をどこへ行くにも毎日連れていき、ご飯を食べさせ抱っこして可愛がりました。
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そんなまだまだ子どもの私にとって五輪当時、唯一記憶としてあるのは「裸足の王者アベベ」です。アベベはエチオピアのマラソン選手で、1960年のローマ五輪で裸足で走って優勝していました。そして東京五輪でも連覇を果たしたのです。
私と近所の仲良しは、アベベ選手の物語を「週刊マーガレット」だったか「少女フレンド」だったか、とにかく少女マンガで読んで、いたく感動し、私たちも裸足で走ろうと、靴を脱いであたりを駆けまわったことをよく覚えています。
「裸足の王者アベベ」という名称が強烈だったせいか、私は長い間、東京五輪でもアベベは裸足で走っていたと勘違いしたまま大きくなりました。中学生くらいの頃か、東京五輪では靴を履いていたと知って長い間の「夢」がしぼんでいくような感覚になりました。勝手に勘違いして、勝手に失望したというおまけ付きの記憶です。
ところで今思い起こせば、私が小学生くらいの頃の運動会では、徒競走やリレーに裸足で出場する子どもがいました。学校の校門前の文房具屋さんでは、赤白帽と共に運動会用の白い地下足袋も売っていて、感覚としては、裸足が一割、地下足袋が二割、残り七割が運動靴でした。但し、走りに自信のある子は大抵裸足か地下足袋だったように記憶しています。
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「フジヤマのトビウオ」を輩出した日本は、『水泳王国』なんだということも繰り返し聞いた覚えがあります。母からは「前畑がんばれ」の話もよく聞かされました。
「フジヤマのトビウオ」とは、敗戦後、ロンドン五輪への出場権もない時代に、自由形で世界的な記録を次々に打ち立て、戦後の荒廃した日本において、多くの人々にその活躍が讃えられた古橋廣之進のことです。
「前畑がんばれ」とは、昭和11年(1936年)のベルリン五輪に200m平泳ぎに出場した前畑秀子選手が優勝した際、ラジオの実況中継をしていたアナウンサーがゴールを目の前にして「前畑がんばれ!」と二十回以上も連呼したという逸話です。
昭和7年(1932年)生まれで、今年満八十八歳になる私の母が、まだ物心つくかつかないかの三歳の子どもだった1936年夏、私の祖父、つまり母の父が夜中にラジオにしがみつき、アナウンサーの「前畑がんばれ!」の連呼に、拳を握りしめながら聴き入り、「勝った、勝った、前畑勝ちました」の声に躍り上がって喜んでいた姿を覚えているといっていました。
三歳の子どもの真夜中の記憶ですから、よほど心に刻みつけられるほどの出来事だったのだと思います。前畑秀子の家が、当時名古屋に住んでいた祖父母の家からほど近く、郷土の誉れという意味も大きかったのでしょう。
私が知っている前畑秀子は、「徹子の部屋」にゲスト出演した時で、既に高齢になっていましたがお元気でした。その時披露してくれたエピソードは、今も忘れられません。ベルリン五輪に参加するため新潟から船でウラジオストクへ行き、そこからシベリア鉄道で延々とユーラシア大陸を横断していった際、食事時間に石鹸が出され、周りの人たちが平気で石鹸を食べているのを見て大層驚いたという話です。
前畑秀子が石鹸だと思ったのは、チーズのことでした。それまではチーズというものを見たことも聞いたこともなかったそうです。それでも恐る恐る「石鹸」を口に入れ、「まあこれなら食べられると思った」と語っていました。84年前の五輪です。
しかし、東京五輪では『水泳王国日本』の活躍はあまり語られることはありませんでした。
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反対に、活躍に大いに注目が集まったのが、女子バレーボールの「東洋の魔女」でした。といっても私には東京五輪当時の「東洋の魔女」の記憶はありません。しかし、この金メダルの快挙を受けて作られた「アタックNo.1」や「サインはV」というマンガやアニメ、テレビドラマは私の小学生時代全般を通じて大ブームを巻き起こしました。あの頃の女の子たちは暇さえあれば、回転レシーブをしたり、稲妻サーブの真似事をしていました。
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女子体操のチャスラフスカは、「東京五輪の名花」と呼ばれた存在でした。しかし子どもだった私には五輪当時のチャスラフスカの記憶はありません。12年後の1976年モントリオール五輪で当時十四歳のコマネチが10点満点を連発して、高校2年生の私はその演技にすっかり心を奪われていた時に、大人たちが「なんだ、こんな子どもの曲芸」とコマネチをけなし、「それに比べて、あのチャスラフスカの優美でエレガントな体操は素晴らしかった」と絶賛していたのを聞いて、初めてチャスラフスカとはどんな選手だったのだろうと思ったのでした。
若い頃の私は、チャスラフスカの昔のモノクロ映像を見ながら、平均台の上で膝を抱えるようなV字バランスをしたり、ただ屈伸で一回転するだけの跳馬を見て、これが当時の五輪レベルなのかと驚きました。大人たちの言い方に腹立たしく思っていたのもあって、「ナディア・コマネチの方がずっと素敵」と長い間思っていました。
それが今回、この稿を書くにあたってチャスラフスカの動画を見直してみると、実に美しいと感嘆してしまいました。成熟した女性の美、確かに名花と謳われただけのことはありました。
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東京五輪関連で私にとって、とりわけおもしろくて不思議な話は、就職して働いていた時の上司が当時中学生で、千駄ヶ谷の国立競技場で棒高跳びを見ていたけれどなかなか勝負がつかず、夜遅くなるからと親に促され、後ろ髪を引かれる思いで競技場を後にし、「浦和の家」に着いてテレビをつけたら、まだ試合が継続していて驚いたという話を聞きました。
そしてその話を聞いた二十年後くらいに、仕事とは無関係な人の東京五輪の思い出話を聞いていたら、最後が「蒲田の家」に着いてテレビをつけたら、になっているだけで、まったく同じ内容だったので、とても驚いたことがありました。
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しかし、私にとって東京五輪と聞いて忘れることのできないのは、小学校高学年の時の担任の先生の言葉です。
ある日先生は、東京五輪のマラソン銅メダリスト円谷幸吉(つぶやらこうきち)選手について語ってくれました。先生は私たちよりひと回り年上の昭和22年(1947年)生まれでしたから、東京五輪の時には17歳の高校3年生だったはずです。
私は先に書いたように、アベベが裸足で走ったのか靴を履いて走ったのかもわかっていませんでしたが、先生の話によると、アベベの次に国立競技場に戻ってきたのは円谷選手だったそうです。テレビの前で先生が手に汗握って応援したにも関わらず、すぐ後ろに追いついてきた英国人のヒートリーにゴール直前に抜かれてしまいました。それでも円谷は三位の銅メダルに輝きました。
そして次のメキシコ五輪では必ず金メダルをと期待されていましたが、円谷選手は、メキシコ五輪の年、お正月明けに自ら命を絶ちました。二十七歳という若さでした。円谷選手の自死の動機は、当時様々に取り沙汰されたようですが、生前彼が語った「日の丸を掲げるのは国民との約束なんだ」という、国威発揚のためのメダル獲得のプレッシャーが大きかったと考えられていたようです。
その時彼が残した遺書は全文が公開されていて、先生は私たちに読んで聞かせてくれました。
先生の声は次第に震え、涙を目にためていました。このかなしくも美しい遺書を読み終えると、先生は私たちにこう言ったのです。
「君たちは、これからの人生で誰かのために頑張って生きるのではなく、自分のために頑張って生きなさい」
今日から思うと、先生が朗読してくれたのは、円谷選手が自らの人生を閉じた1968年からまだ2年か3年くらいしか経っていなかった頃でした。先生ご自身、大学を出たばかりで、円谷選手と年齢も近く、大きな衝撃を受けておられたのだと思います。
ほとんど記憶も確かでない頃の東京五輪ですが、小学生の頃の担任の先生の教えは、その後の私の人生において大きな指針となりました。
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昨今、よくオリンピック選手が口にする、「国民に感動を与えるために、頑張らさせていただきます」という奇妙な言い回しを耳にするたびに、そもそも感動は誰かに与えてもらうものではないし、そんなことよりも自分のために頑張って、自己記録が更新できますように、と私は心の中で呟いています。