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適応障害で休職。敗北宣言と、再起宣言。

適応障害からの休職が進んできて、ようやくnoteなども書く気力が出てきた。もちろんそれまでも、自分しか見ない物理的ノートに独白していたが、多少なりとも人さまの目に触れるnoteに書くには、あまりにも散らかっていて、まとまりもつけられず、見せる気にもならなかったんだ。

幸いなことに、今の私は、自分の中のごちゃごちゃを整理でき始め、今日からに役立て得る学び・教訓に昇華できつつあるのかもしれない。そんな風に期待している。

セルフイメージの見直し

自分で自分のことを、どういうヤツと捉えてるか。そういうセルフイメージについて、改める時期なのかなと考えている。

これまでは、普通の人よりムリが効き、普通の人がビビって手が出ないものをやれちゃうオレ、を自分の強み・誇りにしてきたと思う。しかし、今回の適応障害は、そんなオレに「アホ、お前はそんな強くねぇぞ、調子に乗らずによく見直せ」と言うメッセージをされたのだと思っている。

そうして振り返れば、過去にムリが効いてたオレも自分が凄かったわけでも無く、理解してサポートしてくれた組織や仲間の支えあってこそ、ムリが効いてたんだ、と気づけた。そういう支えが得られない環境に居たら、オレの「強み」は逆に犬死にの素にもなるのだと。

ムリに逃げない強さを。ムリは、最強の伝家の宝刀

オレは今後、ムリができるという自分へのイメージを手放し、むしろ意図的にムリを自分に禁じなければならないだろう。少なくとも、「伝家の宝刀」ムリを、抜刀するタイミングを慎重に見極めなければならない。

それは、この休職期間中に読んでる、下園壮太さん著『心の疲れをとる技術』朝日新書(2013)を読みながら、自分の有り様を反芻して思ったことだ。

下園さんの著書には、「メンタル壊すムリは、本人にとっては、そのタイミングでは一番楽な選択肢に見える」との記述があった。「ムリ続いてるから、休もう・仕事を調整してもらおう」となると、上司や同僚・お客さんへの開陳と交渉が必要になる。しかし、身体不調に比べ、メンタル不調は他者からその兆候が見えづらいこともあって、休みを要する状況だと理解してもらうのも、心理的ハードルが高い。そこで、「もう少し自分が頑張れば済むことだ」に流れてしまい易い、ということだ。

それに、メンタル不調に至ってしまう人の多くが、真面目で頑張り屋さんのタイプが多い。自分に課す水準も、厳格になりがちなことが多い。そういうことも相まって、自分にさらなるムリを課す方向に倒れていくそうだ。

オレは、「自分が普通の人より、ハードな環境に勇ましく飛び込めるところが強みだ」とセルフブランディングしていた。そのことが、犬死に必至の状況でも、自ら死の行軍を続行させることに寄与してしまったと総括している。

オレは、セルフイメージも、セルフブランディングも、変えるべき時なのだろう。少なくとも、「仲間との相互理解・相互支援の体制・信頼感があれば」というムリが効かせられるのに条件がある、と分かった。時にムリする時があったとしても、よくよく、周囲との関係・コミュニケーションと、自分の状況を注意してケアしないといけないんだろう。

不安・恐怖が消えぬ。「オレA」と「オレB」の格闘

さて、休職の手前から休職中まで、「休んでいても休めない」の時期が続いた。脳を休めろと言われ、何も考えずに寝たいのだが、不安・怖れの感情と思考が次々湧き上がって脳内に居座り、一向に気が休まらず、眠ることもままならない状況だった。

むしろ、不安・怖れを無くそうと考えるあまり、「いい歳して、こんな不安に囚われて潰れそうになってるとは、なんと情けなく弱いヤツだ、俺は」と、不安の存在そのもので自分を責め立て、却って不安と怖れを助長する負のループにハマった。自分で自分にダメ出しし、自分で自分を罵倒し続けるような心中が続いてしまったのだ。

オレの中に、不安や怖れを消せと命じる厳格な「オレA」と、不安に怯える「オレB」が居て、常時、オレBがオレAから蹴飛ばされている状況になっていた。

怯える「オレB」も頑張り屋なので、「こんなことじゃダメだ!不安なんか消してやる!不安なことでも、不安にならないようにしてやる!」と頑張ろうとする。必死に楽しいことだけ考えようとしたり、必死に感謝の行をしたり、必死にアファメーション動画を見まくったりしてみる。だが、それでも結局、不安は消えないのだ。

そうこうしているうちに、「オレはやっぱり、普通以上に弱いんじゃないか?」「このまま不安ループに飲み込まれて、ダメになっていくんじゃないか」との恐怖が湧き上がり、お先真っ暗の観にハマった。人生右肩下がり、このままどん底・破綻に向けて、坂道を転がり落ちていくんだろう、と・・。

逆ギレする「オレB」。そして「オレC」出現

オレは真面目だが、「とことん真面目」では無いんだろう。ついにある日、怯えてちゃダメだ、不安を消すために頑張らねばと思ってきた「オレB」が、逆ギレした。

「精神科・心理学・哲学・宗教・スピリチュアル、いろんな分野の人の言葉を聞き、不安や恐れを無くして前向きになれるためのワークを一生懸命試してみたけど、全然いい具合にならんじゃないか!」

「オレのやり方が悪いだと?知るか、ボケ!そんな大層な技だっていうなら、こんな情けないオレでも上手くやれるような方法論にして持ってこいや!」

すると、ダメ出し・叱咤してきた「オレA」と、怯えながら怯えを消そうと足掻いてきた「オレB」の脇に、新たな「オレC」が出現してきた。この「オレC」は、必死で殺伐としていた「オレA」「オレB」と違い、ユルユルだった。

だらしないゆるキャラ「オレC」

「オレC」は、スパルタモードな「オレA」と、健気に頑張るもののうまくできずにやさぐれた「オレB」の会話に入ってきて、次第に会話を撹乱し始めた。

オレA「馬鹿野郎!根気のないヤツだ。なんかお前のやり方がマズイんだから、引き続き、正しいやり方を探して頑張らんかい、ボケ!」

オレB「うっせーわ!今まで、そういうお前の言葉を真面目に受け止めて頑張ってきたけど、もうこれ以上はやってらんねーって言ってんだよ。大体、偉そうに成功法則説いて、困ってる俺らから金取ってるアイツらのたいそうな理論・方法論は、どうなってんだよ?」

オレC「分かるよー。つーかそもそも、こんな事情なのに不安も怖れも疑問も抱かない、って、そっちの方が変じゃね?」

オレB「ですよねぇ?そりゃ、中高年になって休職して、自分に何ができるんだって考えてもたいそうな事もできないオレが、日々不安になるのって当然ですよね?」

オレC「だって、しようが無ーいじゃなーい?逆に、挫折感味わって休職したてのオッサンが『イエーイ、ハッピーでーす!』とかテンション高かったら、ドン引きするわ」

オレA「いやいや、だから不安とか怖れとか、そういうしみったれた感じでいるから、しみったれた現実を引き寄せちゃうんだよ。不安や怖れは頑張って消さなきゃアカンやろが!」

オレC「いやいや、だってさ、火傷するくらいの熱湯風呂に入れられて、『この風呂入ってたら全身ただれて死ぬかも』って怖くなるのって普通じゃん?そこで『心の持ちようでーす、癒されるわー』とか言ってたら気持ち悪くない?もはや童話の『裸の王様』状態じゃね?」

オレA「ぐぬぬ・・・」

不安になって恐れるのを禁止する「オレA」しかいない時は地獄だったが、不安・怖れを抱くことを赦す「オレC」の登場により、怯えたりやさぐれたりしていた「オレB」はだいぶ気が楽になった。

不安・怖れを抱くのも、決して悪い事でも変でもない。むしろ当然ではないか。そう思えば、少なくとも「オレは合格ラインに到達していない不良品だ」という自責の念は緩和した。

不安・怖れの存在否定、の努力を止めた。不安・怖れはオレが否定しようが、ある。あってしまう。それは認めざるを得ない。その上で、不安・怖れに心を占領されないことに目標を定め、なるべく隅っこの小さいスペースの中に飼っておけるようにする、と方向転換したのだ。

何もかもが瞬時に思い通りなんて、あり得ない

体調完璧。身体の不調ゼロ。人間関係、完璧。自分の関わる人全てが自分に優しくて、完璧に理解してくれて、何もかも自分の願い通りに行動してくれる。心は常に晴れ晴れ、嫌なことも悩むことも何にも起こらない。

スーパーマリオなら、常にスター取ってる状態。クリボーはオレの体に当たると勝手に死んでくれる。クッパですらオレを倒せない。オレに触る敵は皆、あちらから勝手に倒れてくる。

そんなスーパーマリオ、あり得ないわね。ていうか、何がオモロい?そのマリオは。

何もかも完璧に揃い、何もかも自分の望み通りの物事しか存在しない、そんな世界を生きてる人って、居ないんじゃないか。もし居たとして、オレはそれになりたいのか?

「うーん、困ったなー、どうしたらいいかなぁ、とりあえず今は思いつかんわ」ということが存在しなくなることが、オレの望みなのか?それとも、そういう物事があったとしても、「まぁ皆んなと一緒に取り組んでいけば、そのうち打開できるだろう。すぐ破綻するわけじゃ無いから、試行錯誤していこうや」と思いたいのか。

何事も、解決したり創造したりするのに、時間が掛かる。土砂崩れで壊れた河川橋は、1日で瞬時に架け替えたりできない。工事を計画して実行するのに、1ヶ月くらいは掛かるだろう。注文したチャーハンだって、15分くらいは掛かる。

問題は、その1ヶ月なり15分で、心折れて諦めるのを避けることじゃないか。思い通りになってない1ヶ月間・15分間で嫌になって投げ出したら、橋もチャーハンも実現しない。橋が掛け替わったイメージ、チャーハンが出来上がったイメージに心躍らせる感触を持ち、今この瞬間は実現に遠い不快感に意欲を侵害されるのを堪え、実現に必要なことに熱心に一歩一歩着実に進めていけるようになること。

頑張ったがダメだった、の敗北は認めよう

さて、今回の適応障害。改めて、「オレは頑張ったが、ダメでした」と認めざるを得ない。

オレは、間違いなく、「物事を、お客さん・仲間・自分のみんなにとって良い方向に向けよう」という想い100%で、頑張った。その想いは、何も恥じるところもなく、反省すべき点もない。

しかし、その想いを発揮する「頑張り方」は、もっと良いやり方を学んで取り入れる余地はあった。何をどう頑張り、何は頑張らないか。どこを自分で頑張り、どこは他人を頼るか。その頑張りどころは、もっと良い形があったように思う。

ただ、あの時のオレの性質・能力と環境条件では、多分、仕方なかった。今回こうなってみて、初めてオレは、もっと頑張り方を学んで、より良い頑張り方をする必要がある、と知ったのだ。

今、敗北直後の休職中で自分が抱く、一定の悲しさ・悔しさ・不安・怖れは、あって当然。本気で頑張って敗北したんだから、ヘラヘラしてたら逆に怖い。多分、この感情が昇華されるのは、再起して、今回の学びを生かして成長したと実感できた時、その時だろう。

その時を経験できるまで、一定の不快感は、抱えて行かなきゃいけないし、抱えていくべきだ。それが、敗北する結果とはなったが本気で取り組んではいた過日のオレに対する、礼儀だ。

過日のオレよ。向いてない環境下、やれることを色々試して頑張ったよな。今回は敗北になってしまったが、オレはお前が命懸けで負けて示してくれた教訓を、生かして進化するからな。きっと来年あたり、「あの負けで得た教訓活かして、今回上手くできた!」という日がくる。その時、一緒に俺たちだけで祝杯あげようぜ!


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