思考の議論って奥深い
人の価値観を知るという行為は昔から好きなことの一つにあげていた。
例えば、何か一つの作品についてあの場面はどう感じたか、どう受け取ったかを言葉にすると相手の頭の中が少し見える気がする。
これが好き、なんで好きなのかどういうところが好きなのか
この環境にいて心地よい、何がその人をそう思わせたのか
でもそれって自分の頭の中と比較して正解を他人に求めていたからなのかもしれない。
ただ、30代になってからは、一緒でも違くても自分はこうありたいよねって自分を受け入れられるようになった。
つまり自分の正解を作る。
昔、環境心理学という本を読んだことがある。
その本で環境が人にもたらす影響を考えることを生業にすることできるんだということを知った。
自分がしたかったことはまさにこういうことだと感じたことを思い出した。
それは自分が考えて伝えたことが相手に認められることが嬉しかったのかな。
承認欲求なのか?はたまた、発見することが好き?
いや、正解と思える何かが欲しいのかもしれない。
またある時、友人や彼の家に泊まって、その人の生活を見るのも楽しかった。
自分の家にはない当たり前があって、リズムや決まりを体験できることはとても楽しかった。
そこにも何か自分のやっていること、生活は正解なのかと照らし合わせているような気がした。
常に正解が分からず、それを求めて生きてきた10代後半〜20代。
でも結局導き出した答えは、正解なんて存在しないということ。
自分の正解を作れば問題ないこと。
工夫して考えながら自分の正解を作ってこなかった私。
他人の正解を生きようとしていた私は常に息苦しかった。
そして、他の人に自分のことを話そうとしても何もない。
だって自分で考えてないんだから。
それがなんてもったいないことをしていたんだろうと感じつつも
今、埋めていく作業にワクワクしている。
相手の頭の中を見ることで、くっと引っかかるものがいくつもあって
そこからどんどん話が広がっていく。
そして他の人に自分の考え方をもらうと、ちょっと近道できたような、引き出しをもらえたような気持ちになって嬉しくなる。
そうやって自分を満たしながら、引き出しに宝物を埋めていくのかもな。
そんなことを気づけた。