今日のニュースの話

ちょっと今日は機嫌も体調もあまりよろしく無いので、愚痴みたいになってしまうのだけど。
もうこの書き出しでヤバそうな匂いを察知した方は下まで読まずに逃げてね。
先週やったことの復習ですよ。

それじゃ本題。
NHKの全国ニュースでやっていた能登のどっかの避難所で小学生が歌っている図が流れてたのね。
私にはその図がどうしても『大人の自己満足の図』にしか見えなくて、すんごく気持ち悪くて。

だってさ、考えてもごらんよ。歌っている小学生たちもさ、被災者なのよ。避難所で生活しているような子もいるわけ。
参加している本人たち全員の「避難所の人たちのために何かしたい」という意思の最終形態が、小学生たちが集まって『1か月もかけて練習して』歌う、というのなら何の問題もないのだけれど、参加している全員がそういう考えを持っているとは限らないでしょう?
先生とか、周囲の大人たちが優しいレクリエーションの『ガワ』を被せて誘導した『老人慰問の図』にしか見えなくて。余りにも見るに耐えなくて。

参加した小学生の中にはイマイチ乗り気じゃなかった子もいたかも知れない。
もしくは、何かしたいという気持ちがあったとしても、こういう形(歌)での『何か』だとは全く考えていなかった子もいたかも知れない。
でもテレビの都合上そういうのは「尺が云々…」でカットされているんじゃなかろうか。
すごくお行儀の良い答えの子2人しか流れなかったから。

そもそも、どちらも被災者なんだから『元気づける』ってなにさ。
そのために大人達と同じく被災して、大人達と同じく通常生活を送れていない『子供達の1か月』を使っちゃうんだ…って思ったの。
だって子供に「避難所の人たちのために何かしたい」って思わせてる段階で、大人に気を遣わせてるじゃない。
対ボランティアの方々に対する『お礼』だったら多分こんなにモヤモヤしないんだけど(それでも子供たちだけにやらせるの?とは思うけど)

加えて、大人や老人たちが完全に『受け身』なのも余計に気持ち悪い。
「子供たちに元気をもらいました」って子供は大人を元気づけるためにいるんじゃないぞ。そこを履き違えるなよって。

大人の1ヶ月は子供の1年だからな。
同じ境遇に置かれている大人たちを元気づけるために費やした『1ヶ月』は、その大人の1年分近い働きなんだからな。
何事にもタダは無いんだぞ

そんな事を思うと同時に、自分は被災した時にそういった話が出たら止めてやれる、「別にそんなものなんぞいらんよ。そんなことより自分のやりたい事をしな。なんならオバチャンが手伝ってあげようか?」っていってやれる大人でいようと思った。それこそ私の自己満足だとしても。

※2月29日追記
一晩寝て、今朝考えて、昨日のモヤモヤと不快感にようやく言葉が追い付いたので追記。
子供たちの1ヶ月を私はそれぞれ個々の学習の遅れの取り戻しや、メンタルケアに費やすべきではないのか?と思った、という事。
歌もストレス発散効果はあるんだろうが、それよりもっと子供たちを気遣ってやって欲しかった。
歌ってる子達も別に楽しそうに練習していた訳ではなかったし。
大人達よりも感受性豊かな年代で、それ故に些細な生活環境の変化にも敏感で、でも乳幼児ではないから気を遣って我慢することを知っている。そういう子供たちにこそもっと大人が寄り添ってあげるべきではないの?子供たちは大人達のために生きているのではないぞ。と言いたかったんだな、昨日の私。

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