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父が脳梗塞で倒れた話5

変わらず駅で14時半に待ち合わせ

この日も遅刻したら、伯母が怒ってた。
そういえば父も祖父も、私の遅刻にいつも怒ってた。


面会に行くと、看護師さんが「昨日より言葉は理解されてるようです」と教えてくれた。

ここには失語のリハビリができる人がいないから、ほかの病院を自分で探す必要があるらしい。
ソーシャルワーカーもいないので、転院先は文字通り自分で探さないといけないらしかった。

父は話しかけたら頷いたり、首を横に振ったりしてた。

私の腕をポンポンとした。
これは元気だったとき、いつも別れ際に父がする行動だった。
帰れってことかなと思い、ほな、またくるわなーと父と別れた。

この日は老人ホームに入居している祖父が週に一度伯母と外食をする日だったので、良かれと思ってそれに付き添った。

祖父は戦前生まれで、子供の頃は大きなお屋敷に住み、ねえやと呼ばれるお手伝いさんがいた家で育った。
7人兄弟の末っ子で、化粧品メーカーでバリバリ働いていたらしい。
引退してからは和歌山に家を買い、祖母と趣味の釣りをしたり旅行へ行ったりと悠々自適に暮らしていたが、祖母が亡くなり、叔母と暮らしていたところ、家の近くで自転車で事故に遭い下半身が動かなくなってしまった。
事故に遭うまでの祖父は几帳面で丁寧で、家事も一通り自分でこなし、聡明で優しい尊敬する祖父だったが、事故に遭い寝たきりになると、ボケはじめ、頑固で気が短くなり、まるで別人のようになった。

食事中祖父から
「これがお前の運命なんやからな」
「親の因果が子に報いって言うやろ」など延々と言われ、私は無視した。

腹が立つので俯きながら黙々と食事をしていた。
祖父の言うとおり、もし親の因果が子に報いたのだとすれば、それは祖父の因果が父に報いたのではないのかと考えていた。

親としての責任をとって、祖父が俺があいつと住むと言い出した。
私と伯母はあきれて物が言えんかった。
下半身不随の祖父と右片麻痺の父が二人で住めるはずがない。
考えただけでもぞっとする。

頭が痛くなるような一日やった。


父が倒れてから大学をずっと休んでいる。
そろそろ単位の事が心配になってきた。

まだ状況がわからないので、もし今学期単位を取れてもこの先卒業できるのか分からない。

もし父がヤマを越えて麻痺が残ったら私は継続して介護をするんやろか。
子供もおるのに、要介護の父まで抱えて働けるんやろか。
わからなかった。
それはまた落ち着いてから考えることにした。
今考えてもそれは想像でしかない。仕方がない。

よかったなーと思うのは、父と離婚してから父の文句ばっかり言ってた母が直接ではないにしろ父の事に協力的な事。
制度の情報を教えてくれたり、息子の面倒を見たり、私のケアをしてくれてる。
母方の祖父母も父のことはよく思っていないにしても私に協力的で、それだけでもありがたかった。

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