多様性とは何ぞや
ニュース番組を見ていて、とある高校の校則では女子はスカートを穿くこととなっているが、「多様性」を受け入れてスラックスを認めるように変更したという。これを見て、ふと疑問に思い、自問する。
生物多様性に肖って?、「多様性」という言葉が頻繁に使われるようになってきたが、なんとも都合がいいように聴こえてしまう。もっと言うなら、都合よく、無責任的に、放任的に使っている気すらしてしまう。
女子はスカートとスラックスの選択肢ができた。一方、男子はスラックスのみだ。これのどこが一体男女平等なのだとツッコミを入れたくなる。男女平等という言葉は女性のために使う表現なのだろうか。本当に、平等性を訴えていいなら、男子がスカートを穿いても世間で受け入れてもらえなけれ不自然である。そうでないと、ご都合主義、いわゆる利己主義となりかねない。例えば、私がスカートを穿いたら、気持ち悪いと十中八九敬遠される。しかし、男性なら女性に、女性なら男性に憧れるときがあるのではないか。ないものねだりではないが、できないことだからこそ欲望が生まれるし、憧れを抱く。
移動式書店るーこぼんによる覆面本(ここで公表したら覆面にならなくなるが…)で、西村宏堂著『正々堂々』を選定してくださった。彼はハイヒールを履いたお坊さんである。まさに、多様性。「好きな自分」を生きていいんだ。まったくそのとおりだと思う。まだ積読中だが、いい本を選択してくれた。しかも、この本を象徴して「生きづらい世界は、自分で作っている」という一言を大石さんは付け添えてくれた。感慨深い…。
LGBTQが認知されつつあるが、受け入れていきましょうと言うこと自体に何となく違和感をもつ。勿論、世間的にまだ受け入れられていないのが現状だが、人間の道徳的な部分というのはどう作り上げていくものなのか。お手伝いをお願いするように「これ頼むね」と言って、「はい、わかりました」と応えられるものとは質が違う。確かに若い時は「えっ?」と思うことはあったが、さまざまな本を読むようになり、多様な在り方(捉え方)を知ることができた。知るだけでなく、読書会なども踏まえながら、さまざまな生き方を受け入れられるようにも徐々になってきた気がする。誰もが精一杯生きていることに変わりはない。ありのままで生きられたら、受け入れるとか受け入れないとかという次元の話は本来関係ない気がする。でも、どれも人生であり、真理である。
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