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ココロのトビラ

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令和4年度に授業で配付している<通心>です。週一で発行予定。
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#運命

運命をどう感じるのか?

 授業「看護総論」において、個々のテーマに基づいて対話を行った。「仲間、友だちと関わることで得られるものはどういうものか。」「向いている仕事、興味のある(好きな)仕事のどちらに就きたいか。」「過去、現在、未来のどれを大切にするか。」どれも哲学的問いであり、興味深くてワクワクする内容なので、対話するには50分では全く足りなかった。しかし、高校生として色々な考えを持っていることに驚きつつ、多面的なまなざしを持ち、相手の意見を受け入れていることに感嘆した。目指す看護師として、否、人

いのちとの出逢い

 韓国ドラマ『トキメキ注意報』『ショッピング王ルイ』を愉しく観終え、日本ドラマ『リコカツ』を家族で観始めているが、人の出会いに“運命”を感じてしまう。まさしく、それは現実でも同じである。一回性の人生において、誰と出会うかはとても大切なことだ。人に限らず、本やモノであってもいい。何であっても、その人の人生においては素敵なこと。しかし、何もせずに待っていたところで人生を変えるような出会いの契機が訪れるわけではない。まずは挑戦的に(自分が思ったように)動き出してみることで、流れが変

「ない」ことに価値がある

 司書さんが薦める『失われたドーナツの穴を求めて』が教務室前の廊下に展示されていたが、この本を4年ほど前に取り寄せてもらい読んだことがある。ドーナツの穴は、ドーナツがあるからこそ存在できる。穴だけを手に入れることはできない。同じように、表だけのトランプを求めることも不可能だ。つまり、これこそ非二元論の話なのだが、表があれば裏もある。正しいことがあれば、間違いもある。善があれば、悪もある。でも、それらはきっちり分けられるものではなく、常に一如。  この1年間、とりわけ近々の2カ

ココロを表現する

 読書会の選定本であった、上田紀行著『覚醒のネットワーク』のあとがきに「こころはパラシュートと同じだ。開かなければ何の役にも立たないよ」とある。これを他のことで喩えるなら、口を開かなければ、食べ物を味わえない。手を開かないと、物を掴めない。それらと全く同じ表現といえよう。天岩戸に隠れた天照大御神よろしく、隠れたままでは外の世界を見ることも感じることもできない。畢竟するに、心は開いていないと、あらゆる事物を受け入れられないし、“気づき”さえ起こり得ない。  読書会でこんな話が出

いのちの切符

 森岡正博氏の著書『人生相談を哲学する』を電車内で読んでいて、「宇宙に生まれたときに一人ひとりは“いのちの切符”を与えられた」という表現が悦に入って、毛布に包まれたような心地よさを得る。このかけがえのない切符を手にし、どんな邂逅的な旅に出るかが人の生き様なのである。  人間はこの切符を偶然にも手に入れ、自身に命が宿っている。これを“宿命”とよぶ。これは奇跡的に生まれもったものだから変えられない。一方、生きる中で命が運んでいくのが“運命”である。だから、運命は未来のことだからど