短編映画「still dark」を観て、「認識と理解」の関係を改めて考える

「still dark」という短編映画を観た。
ストーリーは、「盲目の青年ユウキが街の小さなイタリアンでキッチンに立つ挑戦をする」というもの。

可哀想だとか、悲惨だとか思う描写がなく、
それでいて爽やかな熱さと、見応えがある作品だった。

ユウキの挑戦を大それたものに昇華するようなわざとらしい演出がなく、地に足のついた、それでいて小憎い面白さや工夫がある。

何より、
監督兼盲目の主人公ユウキを演じる
高橋雄祐さんの一挙一動の「解像度」が驚くほとに高く感動した。


見終わったあとに、「認識していないと、理解できないのだ」という話を旦那さんとした。
旦那さんいわく、この言葉はヘレン・ケラーのものだそう。
例えが合っているのか分からないけど、
簡単にいうと
傷口の存在に気付いたとたんに痛く感じる
って感覚と同じようなものだと思う。
物事をまず認識しないと、実感もないし、理解もできない。
認識していないことは、無いことと同義だ。


主人公ユウキはお店の通路の幅、キッチンの物の配置、カットした野菜の薄さなどひとつひとつを触ることで認識して、理解していった。
理解といっても、主人公ユウキなりの「理解」
の形で。

見る、聞く、触る、嗅ぐ…など
物事を認識する方法はいくつかあって、
人によってどの方法を選ぶかが違う。
どの方法を選ぶかによって理解までの到達速度や、理解自体の輪郭が変わる。
ありがたいことに、私には認識方法の選択肢が多めにあるとも感じた。


さて、メタ的な話ではあるが
高橋雄祐さんは「盲目の青年ユウキ」をどのように認識して、理解していったのだろうか。
どのような方法を選んで、理解への道を進んだのか。
それが気になる。

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