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友達

「暴力的感情は、人が生きていく上で必要なものである」

と、検事と議論したことがある。
こう正確に主張したかは、過去のことなので定かではないが、検事は、学校教師が教育として生徒の腹部を蹴ったことや、駅構内で肩がぶつかり階段から落ちてしまったことを例示して、「軽い暴力でも人は死ぬことがある」と、上意下達とならぬよう説明してくれた。

果たして、暴力的感情を完全に排除すべきではないと、今思っている。
そのような世界を、理想郷として目指すべきではないと考えている。

より丁寧にこれを言うのなら、「暴力のない社会」を目指した上で、「個人による暴力的感情」は許容、対峙していくという“二枚舌”で良いという考え。

社会とは“最悪”を想定に作られていくものなので、「最悪の暴力」とは何か?
と、考えたなら、それは無い方がいい。
ただ、一時が万事、全てにおいてそれが“善”であるとするのは、全体的過ぎて、誰も彼もが「個」でしか在り得ないという前提を踏まえると、生き辛い生涯になってしまうよう思える。

“暴力的感情も含む暴力”の排除は、優しい世界なのだろうか――。
“優しさの強制”が、現在ほど強くなかった時代を生きてきた人間からすれば、傷付きながら現在に至るものの、生きるとはそんなもんだろうと、上手く言葉に出来ない丸みを帯びた感覚を元に、「現在」が収められている。
そして、“そんなもん”は、いつの時代もあまり変わらぬ大きさのまま、在り続ける――。

古今東西、“こども”という生き物は、自分より弱いものをいじめる生き物で、海千山千、小さな世界の中でもある。
暴力的感情を去勢した時、「個」は巨悪に立ち向かえるのだろうか――。
今の社会を覗う限り、「暴力」を取り除いても、“薄汚さ”まで拭えはしない。
自分自身、適度に汚く生きてきた。

借り物の「道徳」では辿れない。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」のもわかるけど、だから、何なんだ――。
別に、「賢者」になれなくても、“笑って死ぬ愚か者”で十分。

だから、検事が望んだようなレールには嵌まれなかった。
だけど、検事の教訓は参考になったし、楽しい思い出。
もう会うことはないだろうけど、自分は「友達」だと思っている。

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