格闘技を漠然に
ボクシング界は勢いがある。
がっちりコミットメントして、記事を書きまくってもいいような気もするが、今の世の中、自分なんぞより遥かに専門的に分析・解説出来る人もいて気が引ける。
ジャンルは違うが、突き抜け切ったLeo the football氏を見ていると、それだけで高く評価出来る。
平本蓮のドーピング騒動などを眺めていると、「格闘技」という総合的な括りの中、ボクシングやレスリング、柔道などと違い、アマチュアとして競技が発達していない競技を指す格闘技界(ようは、総合格闘技とキックボクシング)とボクシング界を複雑な感情をもって絡ませながら見てしまう。
先のブログの中で「朝倉未来の『正しさ』を、全て帳消しにしてしまうスポーツ競技における『若さ』という現実」(「競う 朝倉未来vs.平本蓮」)という触れ方をしたが、これが「平本蓮における『ドーピング』という現実」だとすれば残念だ。
だが、これも難しいものがあり、「陰性」という結果が出たということも踏まえると、考え方によって正しさが変わってくる。
掘り下げっていった先だけを記すのなら、「健康」を人質にしてまで「勝つ」べきなのか?――その考え方に殉じた人間のみが勝者として生き残れる競技でいいのか?ということへのバランスの問題になる。
健康を毀損しなければ勝てない競技は、“競技として健康ではない”という考え方が一般化しているから、「ドーピングをしてはいけない」ことがルールとなり、そのルール(基準)がフェアネス(公平性)となっているだけであって、競技者自身が「長生きする気などない」「健康を害してでも高く強く速い競技者になりたい」と熱望し、それが大勢であったならば、その時点で現状の正しさは、土台から崩れることになる。
「朝倉未来対平本蓮」のケースで言うなら、あくまで仮定の話として、“ドーピングをしても「陰性」であれば正しい(「陰性」になるようなドーピングの仕方ならばコンディショニングとして技術の内に認められる)”とするか、“ドーピング自体が悪(アンフェアネス)”とするかでグラデーションがあるわけだ。「明確な正しさ」はなく、個々人の感情や感覚に委ねられてしまう領域がある。
この領域を潰すことが、「RIZIN」の仕事であったはずなのだが、それを積極的に進めてきたようには、外野からは見えない。はっきり言ってしまえば、「RIZIN」側が平本を排斥することは、道義的に出来ない。これについては言い切ってもいい。
道義を無視し、風になびき、平本を遠ざけるというチャランポランな動きをする可能性もあるにはあろうが。
そして、いささか複雑に感じているのが、この辺りの曖昧さが“遊び”として、ゴシップ的に盛り上がってしまうということ。
ボクシング界が、どこか日陰に甘んじて見えてしまうという――。
なので、これらを踏まえ話を戻すと、素人ながら、比嘉大吾が勝ったと思った。
「WBO世界バンタム級タイトルマッチ 武居由樹対比嘉大吾」の試合は、比嘉が判定で勝ったというのが自分のジャッジだ。
この試合の中で、一番利いていたのは比嘉の左ジャブ、もしくは左フック。
「利いていた」とする根拠は、このパンチが武居には見えていなかったということ。
それだけタイミングが良く――出せば当たる。
一方、武居のパンチで、比嘉が見えていないと感じさせるものはなかった。
いかに強烈なブローでも、見えていれば(読めていれば)ガードは出来る。
比嘉が無防備に食らった武居のパンチは一発もなかったように思う。
もちろんガードしたり、体の芯を外したりしていてもダメージは蓄積するので、最終ラウンドの比嘉は明らかに消耗していた。だが、試合のコントロールという意味では、「比嘉の左」が最も支配的なファクターだったと感じる。
「比嘉の左」により中間距離で不安に晒されていた武居は、時折接近戦に巻き込まれ防戦一方だった。
それだけ、一方にとり、終始対処不能であるパンチがあったということは印象が悪い。
100人に1人くらいは、いるのではないだろうか。
3Rと12R――以外は比嘉。
武居が取ったラウンドは、3Rと12Rだけ。
試合全体を通してそこまで差があったわけではなく、武居が勝ったことに対し不満があるわけでもないが、ポイント的に言うのなら比嘉の大差判定勝ち。
改めて見返し、出来るならレポートを書こうかと思っているが、見る人が見れば「比嘉の負けか?!」が事件になっていてもいい。
自らの恥を晒すなら、そんな格闘技への感想。