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普遍的でちっぽけな問題

思い出兼記憶の補助装置として、写真を撮っては捨て撮って、と、やってきているわけだが、轢き逃げに遭ったのが1年ちょっと前。

ただ「写真+ブログ」という、今まで入手してこなかったレアアイテムのおかげで、思い出せているという部分もあり、放っておいたなら風化していきそうな出来事。
「轢き逃げ」という言葉がキャッチーに当て嵌められるから、“出来事”という言い回しにこそしているが、実際は“断片”とか“欠片”という表現にした方が適切であるような気はする。

「社会」と「個人(自分)」ということで考えれば、たまたま自分が無事だったから、自分は気にしない――気にならない――と思っていたとしても、一人の“轢き逃げ犯”が逃げおおせてしまっていることを踏まえると、社会としてはよくないのだろう。
これについては、また別の流れで書く機会がくれば書いてみたいと思うのだが、長い文章を書くのが面倒なので、シンプルに要点に進もうと思うし、その要点が何なのかと言えば、正直、1年ちょっと前、運良く生き残れたことより、現在使用中のバッグのジッパーが壊れてしまっていることの方が問題なのだ。

「問題」――自分の中で解決しなければならない優先順位の上位。

社会の尺度を知ることは、知識としては重要だけど、自分は自分だから。
「尾崎豊」の歌詞のようだが、「価値観」を寄せに行くことの方がストレスだったりする。
知識が有用であることは間違いないのだけれど、「価値観」は自分由来であった方がいい。

たとえそれが物理的現象であったとしても、案外、自転車を漕いでいるだけで過去になる。
自分に係ること、または係らないこと。範囲を拡げる。“恨み”を晴らす、または晴らしてもらう。とする価値観が、まあ、はあ、う〜ん……。
あえて論理をこねくれば、明治の到来とともに廃止された「仇討ち(法)」が復古せんとしているという解釈も可能なわけで。
この精神性が“社会的価値観”にまで伸びていく流れを是とするのかと考えると、まあ、はあ、う〜ん……。

何と言うか、いやはや。四十も越えると説教臭くなるものだ。
ただ、本当に喫緊の問題を明かすならば、ジッパーが壊れて開けっ放しのバッグより、パンツの中で閉じられたおポコチンさんが痒いことの方が――という。正確を期すなら、“金の裏”こそになるのだが、この問題は物心つき始めた頃には芽生えていたろう問題で、問題としてはちっぽけだけど、普遍的な問題なわけだ。

自転車がぶっ壊されたら、ぶっ壊されたなりの出来事があるし。タイヤがパンクしただけでも、その代わりとなる出会いがある。
バッグのジッパーについてもそうだろうし、科学的根拠こそ示さないが、人間の一生って“起き上がりこぼし”のようになっている。

しいて挙げるのであれば、「キャプテン翼」の翼クンのように、国道沿いでバスケットボールを突き、それを国道に逸らしながら遊んでいた小1くらいの子供の記憶も、“轢き逃げされた”記憶と同じように薄れていくことが、残念と言えば残念だ。
慌ててボールといっしょに歩道へ逃げてきた子供に「バスケットマン、バスケットマン。頑張れよ」と自転車で抜き様に声を掛けた自分であったが、状況から鑑みても「声を掛けてくる大人」という括りとしては、声を掛けられるにしてもそれは“注意”であるという刷り込みが少年の中にはあったのではないかという、こちら側の想像もあって、はにかんだような表情を見せてくれた記憶。

勝手なことを言わせてもらうなら、ヘンな大人に煽てられて、ボールといっしょに事故に遭ったとしても責任を感じることはないし、勝手なことを言わせてもらうなら、彼がNBA選手にでもなり、「子供の時に道でチャリンコに乗ったおっさんに……」とか言ったりする未来がきたならば、“ああ、そんなこともあったなあ”と、また思い出すのだろうと思う。
まあ、「おっさん」じゃなくて「お兄さん」だけどな。

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