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戯れ言

今週の休みも、全てが中途半端で、頭が痛い。

息をするように文章は書けるが、そのほかのことは息のみしか出来ない。
正確に言うなら、文章も直近で頭に思い浮かんだ言葉を、訥々と、時に叩き付けるようにしか、書くことが出来ない。

それらも含め、なまじ計画的なものがあったりすると、そのギャップによって頭痛が増す。
だから、それらを諦めた今は、からだが楽だ。
先ほどからシューシュー言っている鍋の中の水も、火事になるまでは放っておけばよいと思っている。
おかげで、暖房も付けていないのに、それほど寒くない。
ポツンと置かれた椅子に、前へ傾きながら座っている。

イライラすることも、それなりにある。
その人ごとにより、少しずつ自分自身の彩度を変えて、気を遣っている。

それは、つまみで調節を加えるほどの変化で、もはや自覚してそうしているのか、いつの間にかそうなっているのかも覚束ない。
しかし、それは、自分自身の為でもあり、それを自覚するごとに、「自分」と「他人」との境にある輪郭が濃くなる。

ひとりだから打算で生きていくしかないと思っている。
けれど、打算を嫌悪するイノセントが底の方で湿っている。

そんな時、何もかもが嫌になる。
小さな溜め息と共に「無」が拡がる。

「無」とは、“窒息”に似る。
上手く呼吸が出来ない時、人は前にも後ろにも進めないだろう。
救いのない苦しさが、そこにあるだけだ。
一縷の望みがあるのなら、何もないと感じていた日常が、実はかすかな希望を宿していたことに“気付く”ということだ。

人間は、一時の虚しさで「自殺」を選ぶ。
しかし、それ以外の時間は、たとえ苦しかろうとも、実は“かすかな希望”を宿している。

「無」の前兆で“イライラ”していても、YOASOBIの陳腐な歌で笑い転げることが出来る。
――子供みたいなその声で、ずっと傍でカラオケしていてくれよ。

気が付けば、シューシューがピーピーに変わり、最後のピーからしばらくして側に行くと、コンロの火は止まっていた。
現代のテクノロジーとはすごいもんだ。
こちらは、首元に止まった季節外れの蚊を払うことすら億劫になっていたのに。

椅子に戻りながら、暖房を付ける。
湯気で曇っていたガラスが反射を取り戻している。
せめて、近所のラーメン屋に、ラーメンを食いに行くくらいのことはしておきたい。

色々ある――色々ある。
いや、色々あるような気になっている。
ガラスに映った顔は、「普通」だ。

ニアリーイコール。

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