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正しく生きない

中学1年の時に考えていたこと。

10の恩を感じたら、10の恩を返す。
10の恩なのだから、返す恩は9ではいけない。
10の恩なのだから、返す恩は11ではいけない。

10の理不尽を受けたら、10の謝罪を要求する。
10の理不尽なのだから、受ける謝罪は9ではいけない。
10の理不尽なのだから、受ける謝罪は11ではいけない。

もし仮に10の理不尽に対し、11の謝罪を受けたなら、「大丈夫です」と過分の1を返さなくてはいけない。

果たして、「大丈夫です」が1の返しとして適当なのかはわからない。
「いえ(大丈夫です)」と短く切るくらいが1なのか。「(もう)結構です」だとどうなのか——。
逆に威圧感を与えてしまっていたなら、それは“返しの1”ではなくなる。“お返しの1”だ。当てこすりだ。皮肉だ。追撃だ。
過ぎたる謝罪を受けたわけだから、返すべき1は労いである。畏まってしまった態度をほぐすのだ。
だから、何を言うかはもちろん、どう言うかも大事になる。
“どう言うかが大事”だということは、声の高さなど、身体的な部分で声質も関わってくる。世の中には心地よい声というものが科学的に解明されているようで、「1/fゆらぎ」という言葉もある。
つまり、「勉強」や「運動」と同じように才能がいる。もしくは、努力では補い切れない程度に、才能も必要になる——「正しさ」には。

「正しさ」を論理的に突き詰めると、以上になる。
つまり、突き詰め切れない。

結局、「答え」は好み。
“合う人・合わない人”理論(とも呼べないような理論)は、「正しさ」へも侵食する。全く同じ言葉を掛けられたとしても、誰からか?という部分で気持ちの盛り上がり方も変わるし、さらりと水に流せるかどうかも変わる。
この人とのSEXは受け容れられるが、この人とのSEXは受け容れられないということと同じだ。
全く同じ言葉を掛けられたとしても、全く同じはありえない。

理論の中で「正しさ」を究めることに限界を感じてしまった。
いや、“正しくあろうとする”――その努力を諦めてしまった。

正しく生きない。
正しく生きない。
正しく生きない。

ただし、代替がいる。
今後も生きていく。
代替がいる。
「正しさ」の代替——「?」

……ああ、ドキドキするなあ。
ドキドキする。
当初イメージしていた文末から変更している。
文章としてのまとまりや鮮やかさは、変更前の言葉の方が良かったと思うが、ドキドキしているので「ドキドキする」という大味な締め括り方で、このブログを終わろうと思う。
ドキドキする。
ドキドキするなあ。
カフェインを摂り過ぎたか?

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