第60回米国大統領選挙
メディアを眺める中での継ぎ接ぎにしか過ぎないが、米大統領選についての所感つれづれ。
直接、米国または欧州のメディアを見知る賢さが自分にはないので、当然日本のメディアから情報を得ることになるのだが、やはりネットを中心とした声(と言ってよいと思う)と同じく、日本のメディアは“やや左寄り”なのだと思う。
米大統領選における選挙方法というのもあるのだろうが、あれだけ「大接戦」——気が付けば「えっ、アメリカって大統領変わるの?!」程度の認識による事前情報でしかないが、特定のコメンテーターが「個」として発信している以外の「番組」的な責任の下では、「大接戦」という予想以外の見解を示すメディアは皆無だった――としていながら、ドナルド・トランプ氏の圧勝。
民主党(左派)のカマラ・ハリス氏に勝って欲しかったという願望が入っていたのではないかと思われても仕方あるまい。
現実を見れば、結局「経済」政策が勝敗を分けたようで、ジャーナリストの神保哲生氏もおっしゃっていたが、2020年に始まった「コロナ禍」——ああクソ中古のボケPCは未だ当然に「コロナカ」を上手く変換しやしない—―という地球規模の災厄を経ての選挙にあって、与党(日本で言えば自民党。米国で言えば民主党であり、現時点でバイデン政権の副大統領であるカマラ・ハリス氏側)が負けてしまう仕組みになっていた。
これを平たく言えば、ここ数年世界中の人はどんよりと不幸であったため、現状からのチェンジを求めた――。
その根本的原因が「経済」であり、これも平たく言うのなら「貧乏」——NO。
個人的には、貨幣価値と幸福は強く結び付いていないので、骨身に染みた実感として得るわけではないのだが—―だからホームレスをしているのだろうし、「ホームレスをしているのに何故?!」と思われもするのだろうが—―、マジョリティーの意見として、これに落ち着いていくことは何となくわかる。
しかし、だとしたら日本のメディア(左派)は、どうして暗い雰囲気を漂わせているのかという気はしてしまう。
「コロナ禍」という流れを経、「経済」が最大足る争点だとわかっていたならば——先の衆院選でも「裏金、裏金」と言っていたのに――、どうしてハリス氏が負けてしまったことを落ち込むのか?
「大接戦」というフリを利かせてまで、“本当はトランプが負けるはずだったんだよ~”という文脈の下、落胆芸をするのか?
「芸」とするには皮肉が効き過ぎか?
本心から「大接戦」だと思っていたのか?
だが、その中にあって感銘的だった言葉が、神保氏と社会学者である宮台真司氏が語り合う中で出た「理論は享楽には勝てない」というもの。
「理論」とはこの場合民主党のハリス氏を指し、「享楽」は大統領に返り咲いたトランプ氏のことを指す。
貨幣価値に重きを置いていないホームレスからすれば、そんな当たり前のことに今更気付くかという気もせんでもないのだが、世間には刺さりそうだし、パッケージされた言葉として良いと思う。今からでも「新語・流行語大賞」のベスト30くらいには、余裕で入っていていい。
しかし、これも多数派における市民からは、弾かれそうな気がする。
鼻持ちならないエリートたちの驕りとして。
英語ハウドゥユードゥの自分としては、ハリス氏がいったい何を言っていたのか無知極まってしまうのだが、わかっているらしい人のフィルターを通すのなら、“具体的なことは何も言っていなかった”らしい。
であるならば、ハリス氏が見せていたパフォーマンスというのは、結局“口角をニカッと広げ微笑み、揚げ足を取られぬよう失言や暴言にのみ気を払っていた”という如何にも保守的(古臭く防御的)な立ち居振る舞いということになる。
果たしてこれが「理論」なのかと言われれば、あくまで「失言」「暴言」三昧だったトランプ氏(享楽)との比較相対に過ぎなかったのではないかと思えてくる。
これは、大衆からの納得感は得られないのだろうが、ハリス氏が負けたことを「嘘だろ?」と嘆く人たちの雰囲気に触れていると、「何を負けたことを不思議がっているのだ」という気持ちが拡がっていくと共に、失言暴言のトランプ氏が嫌なのであれば、そのような失言暴言の“トランプも受容し愛すると宣する”ことが、たとえ綺麗事であったとしてもハリス氏(左派)にとっての勝ち筋だったような気がするのだが。
もちろん、それを言ったところで「お金(経済)」という即物的なものは誤魔化せないかもしれないし(多分無理)、けど、左派がこれをかぶせないでどこの誰がかぶせるのかという……。厳しい言い方をすれば、どこに勝ち目を見ていたのかという話。
そして、これは書き置いておきたいことなのだが、「理論」と「享楽」は共存する。
ハリス氏は、享楽のない理論止まりだったから、理論がなくとも享楽に溢れていたトランプ氏やそれを取り巻く空気に対して、埋没していっただけでしょ?
現実を受け止めるのは難しいかもしれないが、とりあえずこの認識を得るくらいのことはすべきではないか。
島国人間からしてみれば、国境の間に壁を造るなど、「万里の長城か!?」と封建時代を想起させられるが、これが2024年の米国の現実であり、普遍的な人間の性(さが)として、捉え直してみてもいいのかもしれない。
「最小不幸かつ最小幸福社会」か。
「最大不幸かつ最大幸福社会」か。
余談。
「コロナ」が中国で発生したことは厳然たる事実であると思うのだが、だからこそ中国人という「個」には、そのことに対して卑屈になるなと声掛けをしたいという気持ちがありつつ、「そもそも卑屈になっているのか……?!」という大前提が頭をもたげてしまうと、声掛けをしたいという気持ちも霧消してしまいそうだが、他人の内心など実のところわかるはずもなく、とはいえ「ごめんちゃい」くらいは言って欲しいような気がする。
「ごめんちゃい」と言われたら、ツッコミ以上の「オイ」——というか「オラ!!(舐めてんのか!!)」——が、現在の日本からは寄せられてしまいそうだが、しかし、あくまで個人的には「ごめんちゃい」で済ますのか?と思いつつも、内心そちらに傾いて行くだろう、“お笑い至上主義”マインドが、多分、ある。
「ごめんちゃい」ではなく、「ごめんチャイ」。「ごめんチャイチャイチャイニーズ」くらいまで行き切ったなら頭をぶっ叩いてやるけど。
ツッコミとして。
「これくらいでガタガタ言ってたら…」
茂木さん、いいこと言うわ。