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ジタバタ

何日かほど前、炎天下からの日暮れ時、アスファルトに寝っ転がりながら辻村美月の「傲慢と善良」(朝日新聞出版)を読んだ。
まだ家があり、継続的に給金が手に入ると考えていた頃に、文章を読もうと――で、あるならばプロの文章(小説)を読もうと――、西加奈子の「漁港の肉子ちゃん」(幻冬舎)といっしょに、当時近くにあったショッピングセンター内にある書籍コーナーにて、定価で購入した。

あくせくと働いている人間ほど政治に無関心——「どこが政治をやったって変わんないよ」——であるのと同じで(学校のカリキュラムで「SDGs」やら「LGBTQ」を取り扱う世代が大人になると変わるのだろうか)、文庫本を買ったはいいものの、そのどちらの書籍も“家の中”で読むことはなかった。
「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」(三宅香帆/集英社新書)という本を取り上げるネット記事は読みこそしたが。

「傲慢と善良」——その内容について詳しくは触れない。だから、この小説に対しての感想をつらつらと書く気もない。ただ、映画化もされたこの作品の公式サイトを覗くと2023年に最も売れた小説であり、あとがきを書いた朝井リョウ曰く“恋愛小説”であるらしい。
小説——以前に活字そのもの——を追う能力(根気)に欠ける経験値から、この小説が「恋愛小説」であるという確信も持てず、カテゴライズするのなら「人間ドラマ(ヒューマンストーリー)」との大まかな捉え方をしていた。

“お笑い好き”の狂っているところは、その状況、事象を面白いか・面白くないかで考えてしまうところだ。もう少し踏み込んで言うと、この“お笑い好き”という部分は、“ダウンタウン直撃世代”と言い換えていいようにも思う。
熱狂的なお笑い好きは、「ダウンタウン直撃世代」以降も存在する。
お笑い芸人のコンビの名前やそのルーツ、経歴を多く知っていたり、直にライブへと足を運んだりするなど、自分より熱狂度の高いファンはごまんといるはずだ。ただ、ダウンタウンでお笑いが好きになった人とダウンタウンでお笑いが好きになったわけではない世代との違いで、あらゆる状況判断において、たとえ部分的な感覚であったとしても、「面白いか・面白くないか」で、物事を分けてしまうというマインドの差はあるような気がする。
おそらく、「何が違うか?」と明確に問われたなら、この一点のみなのではないか。

「傲慢と善良」の中で、あえてもう一度と、二周読んだ部分は、女性側主人公の大嘘が明らかとされた部分だ。
序章。一部。二部。
一部を男性側主人公の目線で描き、二部を女性側主人公の目線で描き、序章は女性側目線ではあるが、行間を抜いた描き方をしている。それは、客観描写と言えなくもない。週刊文春的に言うなら「第三者」目線と言ったところだろうか。

二部の冒頭、女性の大嘘が、女性目線で明らかにされる部分を、自分は特に面白いと感じた。
それは、ミステリーとしての謎解きの面白さでもあり、だから必ずしも「恋愛小説」という受け止め方をしていなかったのだろうが、その面白さの中には“お笑い的に面白い”もあったはずだ。

2023年一番売れた小説なのだから、この小説を目にしている人がいるかもしれないことを踏まえると、この自分の感想に対し、怒りや不快感を覚えている人もいるかもしれない(「小説を読んだ上でこのブログを目にした人=不快感」か?)。
しかし、人の不幸は面白い。
それは、普通ではないことへの称賛だ。
普通ではないことを労いたい。
嘘の感情による労いは労いではないように思う。
作られた感情では労えない。

「可哀想」という感情がない人間にとっては「面白い」が労いなのだ。

自分のことを棚に上げ、「可哀想な人間」に、自分は一度も会ったことがないような気がする。
「可哀想な人間」を、自分は、生まれてから一度も見たことがない。
平和ボケの最尖端にいるからそう感じるだけなのかもしれない。

先日、市か町かは忘れたが、公共で運営している銭湯にて、地元のお爺さんと喋る機会があった。
もし、このお爺に都知事選の投票権があったなら、蓮舫氏に投票するのではないかと思わせるほど、現状、現政権、今の世の中に対して、不満を抱いているようだったが(7,80代でもネット・動画を見ているような気がした)、人と話しているだけで何かに引っ掛かっている感じがする。
その“何か”をあえて明言するのなら、それは「社会」になるのだろうが、これを「人」にすべきなのかとそのお爺と話しながら、微かに感じた。

そのお爺に、避け難い自分の現状を話した。
自分は、病気である。
病名はわからない。
ホームレスであり、病院に行く予定もない。
あと何年生きているかわからないが、生涯に渡り、通院のイメージはない(と書いた手前、即、「涼むためだけに、さっき大っきな病院に入ったなあ」と思い出したが)。

ちなみに、病名こそわからないが、人が多くいるところや、建物の中に居ることが出来ないという病気だ。
ウイルス、細菌、化学物質、飛沫、匂い……そのいずれかの可能性——というよりも全ての可能性に該当し、呼吸障害や倦怠感、思考力の減退、頭部への鈍痛などがある。
「生活習慣病」——の要素もあると思うが、「環境病」と呼称した方がよいと考える。
治るとは思えない。
苦しみを避けながら生きていくしかない。

「生きる」ことと「苦しみを避ける」ことを両立させることは、隙間を通すようなイメージだ。
詰めて考えるのが億劫だが、「生きる」ことを前提に生きていくのならば、やはり詰めていかなければならないと、「傲慢と善良」の余韻が意思を後押しした。
7,80代でさえネットから情報収集していると感じさせられるような昨今(逆にまんま影響を被っているような気もしたが)、「今時?!」と思わずにはいられない中、「草むしり」の仕事がしたい。

スマホから「草むしり」が出来そうな仕事を探しつつ、「草むしり」が出来そうなお宅を、一軒一軒尋ね歩こうと思う。
「探せばどこかにあるだろう。誠意をもって話せば草むしりさせてくれるかもしれない」(お爺)
——いやあ、あるかなあ……(苦笑)。

なので、もし、「草むしり」のご要望がお在りの方がいらっしゃいましたら、是非メールをお送りください。
合理性恐怖症でもあるので、メールが届くようなことがあれば、場所がどこであるかにかかわらず、お伺いすることを前提に動きたいと思います(予定)。

自分が患う「環境病」は、症状を避け続けることは困難なれど、症状が出ない環境であれば基本無害(ノーダメージ)であるという特異な病気です。
また、周囲に人が居ると言っても、何人以上から症状が出ると決まりきったものでもなく(おそらく自分に影響を与える人が居た場合、一人目から症状が出る)、現実に銭湯やお店に入っているように、建物の中に一切入らない・入れないというわけでもありません。
リスクとベネフィットを下に生きていく(生きていかざるを得ない)ということです。

“一人でやれる外仕事”=「草むしり」であれば、病気の症状を考えなくていいと思っています。
しかし、継続的に生き続けることを考えると、“一人でやれる外仕事”以外でそれをやることは難しいとも感じています。

“何かに引っ掛かっている感じ”ではなく、「人」に頼る。
ホームレスであり、完治の見込みのない病気を患う“可哀想な自分”を、どうかお救い下さい。
ちなみに、自分のことは、無理に「人」だと思わなくても結構です。
庭や空き地の雑草をむしり取りに来た「ゴーレム」とでも思っていてくれた方が、自分も気楽であるような気がします。
初めて会った銭湯の爺さんの話を、内心、上の空でも聞き続ける程度には、“人っぽい”機能があります。

女性小説家の本を購入したきっかけは松本人志さんに係るいざこざから

ちなみに。
自分は男性ですが、「傲慢と善良」の中で最も自身に近いと感じたのは、大嘘つきの女性主人公です。
ネタバレですが、ハッピーエンドで終わったことに、素直に感動しました。
一方で、“崩壊から再生”に向かって行く件(くだり)はかったるく感じたので、未だに未読。
「能登半島へボランティアに行く」ことも考えたけれど、「草むしりの仕事探し」の方が現実に立ち向かっているだろうと考え、ひとまずは却下。

いずれの本も、自分でさえ粗筋が理解出来る程度には読めたので、面白いと思います。
興味深く感じた方は是非。

大島育宙さんは、「SPA!(扶桑社)」で松本人志論を短期集中連載をしているので、よろしければそちらもどうぞ。
(自分は、コンビニ、立ち読みですが)

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