ヘレン・ケラー
体が弱いので、体の弱さと精神の結び付き——メンタルヘルス——を、少年期から、人より考えていた方だと思う。
いや、考えていたというよりも、感じさせられてきたといった方が、正確かもしれない。
机上の空論ではない——現実。
しかし、「論」でもない。
“考えていたというよりは、感じさせられてきた”だけだから。
詰まるところ、言語化がしづらい。
言語化というのはセンスになるので、世の中に流通している言葉を使えば、少なくとも恥を掻かないで済む。
しかし、本来、自らしかわからない内面のことなので、それがオリジナルでなければ本末転倒だ。人に合わせることで——少しずつ、確実に——真実が歪められていく。
ヘレン・ケラーは果たしてどうだったのか——心の襞。
そんなことを思う——ふと。
「心の襞」も「ふと」も、誰かが言いだした心模様だが、塗り絵としては悪くない。一致を感じる。
目も耳も口も利かない「三重苦」として、ヘレン・ケラーは有名であるが、ある時、目も耳も口も利かない存在だと自らを知り、人生が明転していったとされる。
細かな事実は違うのかもしれないが、パブリックとしてあるイメージも大差ないだろうし、障害者としてそれがありながらも、それを乗り越えたという認識だ。しかし、本人は、“乗り越えた”とされるその先の未来を、明るいと感じていたのだろうか——。
ずっと真っ暗闇だったということもないだろうが、逆説的に言えば、“ずっと”ということがないだろうと思ったわけで、途轍もないハンデを背負っているという自覚がなかった頃は不幸であり、その事実を認識する——気付き——があったことで知識の幅が広がり、それ以降は幸福になることが出来たとする、あたかも人生がツートンカラーであったかのような伝えられ方に疑問を感じたわけだ。
もっともらしい意見をこれに付記するなら、自分以外の人間が目も耳も口も利いた上でそれが「人間」だと知った時点で、じゅくじゅくとした嫉妬が、その後生涯に渡って残り続けていたとしてもおかしくはなかった。
さらに言うなら、“ハンデを背負っている”という自覚がなかった頃の方が、幸せだったかもしれない。
それを踏まえると、より信憑性のある見立てとしては、ヘレン・ケラー自身がではなく、ヘレン・ケラーの世話をしている周囲が、そう思っていた——そうであるべきだと考えていた——という見方もなる。
果たして、幸せであることをヘレン・ケラー自身が周囲に示すことが出来たのか——とまで仮定の話を進めると、これはこれで一方的過ぎ、あくまで仮定は仮定として押さえておくべきだと考えるが、可能性という言葉を持ち出すのなら、そんな陳腐な鬱物語もあるのかもしれない。
少し話を戻すなら、“ヘレン・ケラー自身ではなく、ヘレン・ケラーの世話をしている周囲が、人より足りないものがあると自覚してからのヘレン・ケラーの方が、それを補おうとする力が働き、実際、それを実践していたのだから、ヘレン・ケラーは幸福だったという見方をしていた”とする仮説は、「SNS」が発達した現代社会との間で、類似性があるように思う。
民主主義——落とし穴。
多くの人が「そうだ」と思った感情が、事実として認定されていく社会。
本来司法制度とは、民主主義の高まり——民度への自覚——を以て、それが興り、その定着を図るというのが、理論の下にあった物語だったと思うのだが、その定着を見たか見ずかのタイミングをプラトーとし、民主主義の手——多数決シンドローム——によって、逆に瓦解し始めるというところまでがパッケージだったのか。
一つ牌が倒れたらドミノ倒しのようにパタパタパタパタ。寝て寝て寝て、おもねって、寝て寝て。
いじめっこ・いじめられっこ——傍観者。
寝たふり、見ないふりをアップデートし、「いいね・悪いね」を1クリックする傍観者。
ヘレン・ケラーに話を戻すなら、大きなハンデを抱えているという自覚を持ってからも、“知る”ことへの喜びが上回っていたならば、おそらく「三重苦」であった当時も不幸とは呼べない程度の幸せは、無邪気に満喫していたのではないかという気がする。信憑性という意味では、先の信憑性より、こちらの信憑性の方がやや勝るのではないかとする我が持論。
であるならば、周囲が描く身勝手な事実も、“私的には「三重苦」であるとかないとか、そんなことはテキトーに放っておいて、どちらの自分もそれなりに楽しかったし”で、明朗快活な有耶無耶さの下「どうでもいい」と思っていたのかもしれない。文章を書くにあたり少しだけ調べてみたら、死因も「老衰」であったみたいだし。
人は、死ぬと、一生が簡略化される。
簡略化されるならばまだいい方で、時に記号となる。
ならば、“人生自体なかったことにしてしまいたい”——そういうこともある。
書き連ねることによって、自分とヘレン・ケラーは、対極であるか如く別人種であるように思えてきた。
結局のところ、「『モノクロ』と『カラー』で、人生を色分けすることなど出来ない」という“ふと”も、ヘレンさんからしてみればどうでもいい話であったか。自分も周囲の中の一つ。
似ているところがあるとすれば、“家がないから不幸で、家があるから幸せである”とするツートンカラーを否定する部分。「家」と「幸福度」には相関性がないことから、家があっても幸せな時・不幸せな時はあるし、家がなくても幸せな時・不幸せな時はあるという、当たり前の部分で意気投合出来るかもしれない、ということくらいか。