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常識

よくはない。よくはなかろう。しかし、「お笑い」である。
明日、9月27日、「teruo haruo」の名を騙り、「ダウンタウン」がMー1グランプリ2024の1回戦の舞台に立つ。

よくない理由は言わずもがな、ダウンタウンは、規約として定められる結成15年以内を、とうに越えている。「Mー1」とは、結成15年以内のコンビ(ユニット)が出場する漫才の大会だ。ダウンタウンが出てしまうと、“漫才コンテスト”としてのフェアネスに係ってくる。“たかされ”で言うなら、「されど」の部分だ。
けれど、自分はダウンタウンが「Mー1」に出場してもいいと思っている。

理由の一。ダウンタウンは、長らく漫才をやってこなかった。
「teruo haruo」の結成タイミングは、一昨年の4月3日で、この日は吉本興業が創業110周年を記念し打った「伝説の一日」の公演日に当たり、ダウンタウンがテレビにおいてバラエティー的に行った漫才(ある意味でのギミック)としてではなく、お客さんがいる舞台上で披露した漫才としては、31年ぶりのものだったらしい。
漫才師としてデビューしたとはいえ、31年間漫才を行っていなかったわけだから、31年ぶりに漫才を披露した日から起算してもいいのではないかという発想だ。

また、それに輪を掛け、昨年末の文春報道以降、松本さんは活動休止中であり=ダウンタウンも活動停止になっているわけだから、あくまで印象論としてになるが、漫才師としての累計がリセットされていたとしても、そこまで変ではない。ギリOUTくらいだ。
そして、理由の二。もし、仮に、ダウンタウンが出場することがあったなら、間違いなく盛り上がるだろうということ。

—―誰が?
お客さん?一般人?世間?マスコミ?
違う。出場者が、だ。
先日、性的暴行を働いたとして、相手女性側から刑事告訴を受けていたサッカーの伊東純也が日本代表に復帰し、W杯予選に出場したが、その際に起きたグラウンドでの反応は、伊東を歓迎する「純也コール」だった。
さすがに松本さんが舞台袖から現れ、「松っちゃんコール」が起きるとは思わないが(むしろ漫才がやりづらい)、“暖かな空気”になるのだろうと思う。
そして、何故その空気が、容易に想像出来てしまうのかと言えば、文春報道における最大の肝となっている部分を、多くの人が信じていないだろうからだ。そして、何故多くの人がそれを信じていない—―あくまで“ふわっと”した「セコい」とか「下品」とか、人間的なイメージダウン止まりのまま—―なのかと言えば、「松本人志」を傍で見ていた芸人たち(よしもとに限らない)やテレビマンたちの、松本さんへの信頼が、何ら損なわれていないのだと感じ取ることが出来るからだ。
それを、松本さんのアンチやお笑いを観ることに慣れていない人たちは、「忖度」という、安倍政権時にひょっこり現れた利便性の高い一言でまとめるけれど、何の先入観もなくその振る舞い等を観たならば、そこに感じるのは「信頼感」だと考えるのが普通だと思う。

—―“松本さんがそんなことするはずがない”という「信頼」。
結局、「週刊文春」は、“告発女性が尾行され苦しんでいたという片側目線の主張”を発信してなお、人を笑わせることで築き上げてきた松本さんへの「信頼」を崩せてはいない。
話は少し逸れるが、「週刊文春」または「松本人志」の信頼度、もしくは信憑性を考えた時、端緒を切った昨年末の記事を最盛期に、「文春」側が以降後退している。当時、あの瞬間、情勢は「文春:9」に対し「松本:1」であった(「9.9対0.1」と言っても言い過ぎではないかもしれない)。
現在はどうだろう。時と共に後退したと見るべきだ。また、何よりも、「週刊文春」自体がそう思っていよう。いずれを信じるか、各々立場は違っていたとしても、これを現実とし現状認識が出来ないのであれば、客観的に物事を見るという意味で、目を疑う。

話を戻す。
「お笑い好き」というのは、「芸人(職業お笑い)」が好きなのである。
そんな「芸人」たちが、それぞれ「個人」の思いとして、松本さんに対する信頼が揺らいでいないということを、間接的とはいえ十分認識出来る範囲で滲ませているのだから、それを信頼することは自然なことだ。
対象に対し、尾行の距離感でしか接点が持てない「週刊文春」の主張の方が、信頼に悖っていると考えても、不自然ではない。

業界は、松本さんの復帰を願ってやまない。
それは、松本さんが「面白い」のはもちろんのこと、松本さんが、少なくとも「『正しくない』ということはない」と思っているからだ。
アンチやにわかは、松本さんの復帰を願う人たちを、「信者」であるとか「応援団」だとか言うが、それに倣うなら千鳥の「大悟」も「ノブ」も、麒麟の「川島明」も、笑い飯の「哲夫」も、それこそ東京の芸人であるアンタッチャブルの「山崎弘也」や、おぎやはぎの「小木博明」や「矢作兼」も、バナナマンの「日村勇紀」も「設楽統」も、ナイツの「塙宣之」も、松本さんのことを“「面白い」のはもちろんのこと、松本さんが、少なくとも「『正しくない』ということはない」”と思っている「松本信者」であり「松本応援団」だろう。それこそ、もっとたくさんの芸人、テレビマンがそうであるだろう。

これは、常識的に考えて、松本さんが「間違っている」という認識を持ちながら拡がりゆく幅ではない。「性善説」で物事を見てしまう自分としてはそう思う。
「週刊文春」に書かれていることそのままが「松本人志」であるとしていながら、松本さんの復帰を望むような下衆は、少なくとも名前を挙げた芸人たちの中にはいなかろう。
自分自身、自分の挙動で人が笑うと嬉しい—―人を笑わせることで対価を得ている「芸人(職業お笑い)」の心は、そこまで貧しくない。

話をまとめる。
だから、「M-1」というおんなじ土俵で、ダウンタウン(松本人志)と戦えるということが、嬉しいと思う、単純に――出場者は。
「芸人(職業お笑い)」に近いほど、その信頼は強くなり、ただのお笑いファンより、M-1にエントリーするお笑いファンの方が、「芸人(職業お笑い)」により近い。
その盛り上がりは「9.9対0.1」?!
だから、それで、いいのではないかな、別に。出場者自身が、フェアネスより嬉しさを取るのだろうから。“たかがお笑い”として(もちろんフェアネスとしては「0.1」が悪いわけではない。むしろ正しい)。

ちなみに、最終回まであと1話と迫った「呪術廻戦」に目を通したが、大団円の流れから逸れ、思っていた通りにバッドエンドを迎えそうでワクワクしている。
よくはない。よくはなかろう。しかし、「エンタメ」である。「面白い」における常識である。
明日、9月27日、「teruo haruo」の名を騙り、「ダウンタウン」がMー1グランプリ2024の1回戦の舞台に立つ―—当然そう思っている。
当然そう――55%くらいの確率で思っている。

松本さんのX再開後の流れを見ても、「M-1(競技漫才)」用に、時間を取り、ダウンタウンとしては似つかわしくないネタ合わせを、浜田さん相手にしっかりとやっているのかもしれない。今この瞬間もそれをやっているかもしれないと考えると、まま面白い。
だが、だからこそ勝たないと駄目。
優勝以外は「負け」であると考える。当たり前だが「文春」よりも厳しい。

令和ロマンだってダウンタウンに勝って連覇した方が嬉しいだろう

「アンチ&にわか」は、ダウンタウンが出場してしまうと、審査員がゴマをすり、業界が歪められ、若人が萎縮すると主張したりするが、ドリームキラーはやめようと言いたい。
猜疑心で可能性を潰すのはやめよう――非未来的。
「破滅型の人」はいい。それがその人におけるパーソナリティーなのだろうから。
だが、「人の破滅を望む人」には自制を求めたい。気色が悪いので。

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