身と丈
家があるのにノートパソコンよりスマホで文章を書くことの方が多い。
非合理的だと理性では思うが、スマホの方に引き摺られ、ブログもスマホで書くことの方が多い。圧倒的に多い。
だが、“スマホの方に引き摺られ”ているのは事実だが、他方、理性的な理由も諸所あり、椅子が合わないとか、机が低過ぎるとか、結果首が痛くなるとか、そんなこんなもある。筆記行為に関しても、スマホに流れることは自然であるように思える。
しかし、家に居て、PCを開くことの出来る環境がある以上、PCで文章を書きたいという望みはある。“理想論”というほど、高望みではないはずだ。
要点整理。
PCで書きたい、または書くべきだ、と思うのは、PCの方が圧倒的に筆記速度が速いからだ。
時間が同じであれば、PCの方が間違いなく多くの文字を打ち込める。
何故多くの文字を打ち込みたいのか——?
という疑問は、普遍的で、ウザい哲学の方に向かってしまうので割愛する(こんな駄文に時間を取られたくねえんだよなあ。雪山登山にも耐え得るような寝袋を買いに行きてえんだよ)が、構図としては、「多くの文字を書けるはずのPC」対「机・椅子の高さが合わないことによる首の痛み(ざっくり言うのなら)」になる。
“痛みを押してでも書けるのなら書きたい”と、正直思う。
この前提に立つのなら、ひょっとすると“理想論”なのかもしれない(寝袋の前にゲーミングデスク・チェアを買った方がいいのかなあ)。
だが、だとすれば「書けばいい」というだけの話でもあり、痛みを跳ね除けられない精神力に問題があるということになる。
しかし、結論から言えば違う。
“スマホ慣れ”という問題もあるのだろうが、精神力という以上に、もっと肉体的な意味での「頭」に問題がある。
スマホの方が、「言葉」が浮かぶのだ。
何故か——?
世界を掌握できている感覚があるからだ。
もっと平易に言うなら、“俯瞰性”が伴う。
今書いている文章の先、その先、そのまた先、またはその先のパターンⒶ、パターンⒷ、パターンⒸ……の文章を頭に残しながら、今の文章を書くということが、「文章を書く」ということだと思うのだが、PCの場合、先の展開やそこからの枝分かれが生まれにくい。
そこに、決して我慢出来ないことはない程度の首の痛み等が加わる。
なので、言葉が浮かばない理由は複合的だったりもするけれど、“俯瞰性”が欠けてしまうことによって、その先を見失っているのだと思っている。
根拠とも言える例を3点挙げる。
ひふみんこと、昭和の名棋士である加藤一二三九段は、熟慮する際に、将棋盤から離れ、立ちながら考えていたということ。
元メジャーリーガーのイチローさんは、テレビ番組の取材を受けながら、ネットに向けボールを投げ続けるという練習の際に、「取材を受けながら投げているから、逆に疲れない」と言ったこと。
メンタリストのDaiGoさんは、海外の、おそらくは有名な大学の研究で、“人が頭を働かせるには立った状態の方が良い”ということを知って、自宅の書架には椅子を置かず、立ったまま調べものをしているらしいということ。
加藤九段の例は、身体的な視野の確保と思考における視野の広さを同一として捉えているからこその行動であり、PCよりもスマホの画面の方が視野に収まる。
イチローさんの例は、“集中していない方が人は疲れないという逆説”で、スマホ筆記はまさに片手で行う、片手間な動作。
さらに、「引退してからの方が競技の本質(技術)が理解出来る」とは、スポーツ界からよく聞かれる話で、“片手間トレーニング”は、俯瞰性を伴う疑似引退状態なのだと思う。
そして、DaiGoさんの例は、より直接的な身体の話で、人は気分や精神といったどこか抽象的な意味合いとは別に、立っている状態の方が頭が回転するらしい。
実際、この記事を目にするよりも前から、自分自身、身体的な感覚としてこれを理解することが出来た。
この感覚は、頭の中にある“俯瞰性”や“片手間作業”による客観視以上に、より肉々しい体感として、思考が深められるものである。
また、だからこそ直立原人と化した人類は、ここまで進化出来たという辻褄も合うわけで、「起立」もしくは「歩行」と「思考」には、関連がある——“現代人”においても。
そして、PCを持ちながらタイピングすることは極めて難しいが、スマホにならそれが出来る。または、それに近いことが出来る。
そもそも、多くの文字をタイピングすることが出来る状態であっても、「言葉」が浮かんでこなければ文章は綴れないわけで、視点をPC側に移すと、そこにはどこか“圧迫感”がある。
“PCで書くべきだ”という気持ちだけが、結果的に、肥大化する。
しかし、だからこそ椅子に座りながら勉強が出来る人のことを凄いと思う。
「は~。ノートびっしりじゃん」——図書館に居ても、ため息が出る(あ〜あ、もう真っ暗だよ……)。
椅子の周りをぐるぐると回りたい気持ちを周囲と摺り合わせ、図書館をぐるぐると巡ることで妥協して、何となく勉強した気になっている。
にしても首がいてー。
これ以上は袋小路に迷い込んでしまいそうなので、黄色と黒のバーを赤いコーンに嵌めるような気分でおしまいにする。
誘導棒を手に持った、「安全太郎」は頭に浮かぶ。
やりたいことは何だったのか――。
色々と、バイパスのメンテナンスをした方が良かったのだろうけど。