参議院を制した者が権力を握る件
こんにちは。海原雄山です。
今日は党内権力闘争における参議院の重要性についてお話をしたいと思います。
国会における参議院はご存知のとおり、『衆議院のカーボンコピー』と揶揄されるように、その存在意義について常に問われがちです。
しかし、こと党内闘争においては話は別です。
では、なぜ、党内の権力闘争において参議院は重要なのでしょうか。
自民党の過去の事例を振り返りながら、考えて参りましょう。
事例①竹下派の跡目争い
まだ中選挙区制の時代だった1992年のこと、当時の経世会こと竹下派(現在の平成研こと茂木派)は衆参で100名規模のダントツの党内最大派閥でしたが、金丸信が会長を代行している状況でした。
その金丸信が東京佐川急便事件をきっかけとして、議員辞職。
竹下派と言えば、田中派以来鉄の結束を誇りましたが、急な権力者の退場で次の世代への権力移譲が進まないまま後継者を選ばざるを得なくなり、竹下派の後継者争いが表面化しました。
権力争いの主役は2人。
1人は当時史上最年少で自民党幹事長を務めた小沢一郎と、もう1人は後に総理大臣にまで登り詰める小渕恵三。
小渕恵三は、今自民党の衆議院議員である小渕優子のお父上にあたるというのは、このnoteをお読みの方なら多分言わずと知れたことでしょう。
後に竹下派の跡目を決める経世会の総会が開かれます。
竹下派を支えてきたいわゆる竹下派七奉行がここで真っ二つに割れました。
小沢支持グループに回ったのは小沢一郎本人と渡部恒三など3人。
これに対し、反小沢グループは橋本龍太郎(後に総理大臣)と小渕恵三、そして梶山静六。
実はこの頃から『親小沢と反小沢』を軸に政局は動いてたんですね。歴史は繰り返す。
さて、閑話休題。残る七奉行は羽田孜(こちらも後に総理大臣になりますが、それはもう少し後の話)です。
小沢支持グループは、七奉行最後の一人を引き込むべく羽田孜を会長に据える方針を打ち出し、羽田孜を抱き込みにかかります。
トップは別の人に譲り、自分は2番手のポジションで実質的な権力を握ると言う、小沢一郎のお得意のパターンです。
羽田孜は後に約2ヶ月の短命内閣の総理大臣となり、影が薄い印象を持つ人も多くいるかもしれませんが、当時党内では人望が厚く、小沢一郎は羽田孜をグループに引き込めば流れを引き寄せられると考えたのかもしれません。
当時小沢一郎は『衆議院で多数派を取れば、参議院は勝手についてくる』と考えておりましたので、参議院は後回しでした。
対して、小渕恵三に派閥掌握させて自らの復権を図る竹下登が参議院は反小沢でまとまるよう青木幹雄(長らく竹下登の秘書をされていました)に指示しました。
その後、派内の流れは小渕恵三会長支持に傾き、経世会の会長は小渕恵三に決まりました。
一方、派内の権力闘争に負けた羽田グループ(実質小沢グループ)は、政策集団「改革フォーラム21」を結成すると発表し、経世会を離れ、44人からなる羽田派を結成しました。
かくして、竹下派の跡目争いは、参議院を制した小渕恵三の軍配があがったのです。
事例②2003年自民党総裁選
二つ目の事例ですが、これもまた旧経世会、平成研。
時は小泉政権下。
当時平成研は橋本龍太郎元総理が会長でしたが、実権は野中広務と参議院の青木幹雄が握っていたと言われています。
田中角栄と福田赳夫が総理総裁の座をめぐり激しく争った角福戦争以来の因縁か、田中派の実質的後継派閥である平成研は人事で徹底的に干された状況でした。(2003年まで党執行部のポストを得られずにいました)
そんな中、反小泉だった橋下派の野中広務は対抗馬擁立を模索し、実際複数の候補者が名乗りをあげました。
しかし、もう一人の実力者である青木幹雄は、小泉支持を打ち出します。
当時小泉純一郎は、対立する派閥といえど、青木幹雄とは懇意にしていたと言われています。
その結果、橋本派は衆議院と参議院で一枚岩になれず、藤井孝男という候補者を擁立したものの、惨敗してしまいます。
当時小泉政権下にも関わらず最大派閥だった橋本派は、その数の力を最大限発揮することができずに、その後執行部のポストを得るものの、郵政解散の前後で最大派閥の座を森派(清和会、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫の出身派閥)に明け渡すことになるのです。
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