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維新が橋下氏から卒業する日

(この記事は、2022年4月22日に旧ブログで公開されたものです。)

最近橋下徹氏のウクライナ情勢を巡る発言が物議を醸している。

近頃の維新支持率の下落(私個人は落ち着いてきただけだと思うけど)は、橋下氏が連日メディアで発しているウクライナ関係の発言のせいであると言う批判も少なくない。

また、その反作用として、「橋下氏の考えていることを否定することは、維新を否定することであり、そんなことを言う人間は維新支持者ではない」とさえ言う方もいらっしゃる。

私は今回、橋下氏の発言内容の是非について論じるつもりは毛頭ない。

ただ、「橋下氏の考えていることが維新の全て」という考えについては、一言もの申したい。

まず、今の維新があるのは、間違いなく橋下氏が大阪府知事・市長となって大阪の改革を大きく進めたことで、橋下氏の率いる大阪維新が大阪の有権者から大きな信頼を勝ち得たことにあることは紛れもない事実。

橋下氏の後、松井一郎氏や吉村洋文氏が同じく知事・市長となって、その政策の方向性も含めて継承しているからこそ、大阪で維新は継続的に政権を維持することができている。

そういう意味では、政策面で「橋下氏の考えていることが維新の全て」という考えには一定の合理性があるように見えるかもしれない。

しかし、実は橋下氏が現役の政治家だった時代、維新の政策の根幹となる部分は、浅田均現参議議員のアイデアであった。(塩田潮「解剖日本維新の会」)

浅田氏が考えた根っこの部分を松井氏が調整して、橋下氏が外に向けて発信し、世論の流れを作るという分業体制で、橋下時代においては政策の決定から実行までのプロセスは形成されていた。

ということは、維新から離れた今の橋下氏の政策の話は、本当に維新の全てと言えるかというと怪しい。むしろ、浅田氏の考えこそ政策面での維新的な部分を担っていると言っていいだろう。

では、維新という政党において橋下氏が形成してきたもの、残してきたものとは何か。

私は、「プロセスを重んじる政治姿勢」だと考える。

私は、橋下氏の著作を結構読んでいる。

新刊が出たらわりとすぐアマゾンで買うのだが、それらはテーマは若干違えど、割と共通なことが書かれている。

それは、何が起きるか、伸るか反るか先の結果は分からないことを判断しなければいけないとき、その決定をするまでのプロセスは周囲も納得行くものでなくてはいけないということである。

橋下氏は知事・市長時代に自分の時にあがってくる案件は、いずれも簡単に判断できないものばかりだったという。

それはそうである。簡単に判断できることなら、知事・市長である橋下氏の部下のレベルで済んでいる。部下ではどうにも判断できない重い意志決定や難しい案件だからこそ、最高責任者にあがってくるのである。

そして、それ故に、最高責任者と言える人物でも即判断はしかねるのである。

そういう時、橋下氏は「棒倒しの棒」の役割に徹するのである。

A案B案それぞれを主張する部下両方に議論させ熟したときに、よりマシなもの、より確からしいものを意志決定に採用するという手法を取ってきた。

その結果、失敗するかもしれないけど、その過程で徹底的に議論させることで、失敗したとしても、「あれだけ議論したんだから仕方ない」とみんな納得するのである。

このように、橋下氏は結論はどうであれ、過程の適切さを大事にしてきた政治家であった。

その精神は、オープン政調や各種選挙の公募だけにとどまらず、選挙候補者の予備選の実施といった仕組みとなって今の維新にもその精神は受け継がれている。

そういう意味では、「橋下氏の言うことが維新の全て」というのはやや言い過ぎで、「維新の党風を作った」「維新の意思決定の仕方を作った」くらいが穏当だろう。

あくまでも党の政策の根本精神は橋下氏由来ではない、というのが私の理解である。

ところで、橋下氏だが、知事市長時代、自分がこうしたいと思ったものでも、部下である役人の言うことに理があるとわかれば、自分の意見を変えたり軌道修正したこともあったという。

その際には、決して情緒で決めるのではなく、データ分析等を駆使して合理的に判断していたという。

これは、橋下氏が、自分の主張をごり押しするのではなく、優れたアイデアは他人のものもしっかり認めて受け入れる度量も持ち合わせたという一面も持っていることの裏付けでもある。

テレビで自己の主張を強く押し出し対談相手に論争をふっかけるイメージとは、やや異なる一面だ。

その一方、政治家引退後の橋下氏は、自分が作った国政維新に割と厳しい論評をすることが少なくない。

直近では、衆院選投開票翌日に、「躍進の理由は国会議員団の頑張りが世間に伝わったおかげ」とコメントした当時幹事長の馬場氏に、「衆院選躍進は大阪での実績のおかげであって、国会議員の手柄ではない」とこき下ろした例が記憶に新しいが、2018年に出版した「政権交代論」という本には、「日本維新の会は失敗だった」とまで書いている。

それでも橋下氏は、ある種の期待を国政維新に持っているのではないかと思う。

もし、国政維新に全く期待していないなら、そもそも批判のコメントすらしないだろう。

自分が見た限り、橋下氏は社民やN国に対してコメントすることはほぼないし、れいわについての言及は、選挙速報の時だけだと思われる。

その橋下氏が、本当に国政維新に三行半をつきつけているなら、ワイドショーで国政維新に一切言及しないであろう。

ここからは、私の希望的観測かもしれないが、橋下氏はあえて厳しめのコメントを国政維新に突き付けるのは、(国政維新の浄化(?)を狙う意図もあるが)自分をぎゃふんと唸らせるような議論ができる議員が国政維新から出てくることを期待しているのではないか。

かつて、役人にロジカルに反論されたときのように、自分の考えより優れた考えをひねり出してほしいのではないだろうか。

それは国政維新にとっても望ましいことであると思う。

大阪府政(市政)において吉村氏というニューリーダーが出てきたよう、いつまでも橋下徹という人間の余韻で食っていくのではなく、国政維新から新たなタレントが出てくることは、永続的に国政維新が発展していくためには不可欠なのである。

名だたる大企業の経営トップ層が抱える悩みの最も多いものの一つが「後継者の不足」である。

いつまでも創業者におんぶにだっこの企業というのは、創業者がいなくなった後何事も決めることができず、将来がない。

日本のとある通信会社も創業者がいなくなった後、力を失うのではないかと言われている。

同じことは国政維新にも言えることで、創業者たる橋下氏がいつまでも待望されているようでは、人材不足が深刻と言わざるを得ない。

橋下氏は、TVを通じて、国政維新メンバーを試している。そういう風に思えてならないのだ。

自分が作り上げた党風により、みっちり党内でオープンに議論された政策、それも客観的データをもとに議論に議論を重ねた理論武装され切った政策で、スキのないロジックを組み立てて、ぐうの音も出ないくらいに橋下氏自身を打ち負かすことができたなら、その時初めて、国政維新はしっかりとした人材が育ち一人立ちできたと言えるだろう。

自分の考え方と違うと言って、単純に相手を批判したり完全否定するほど、橋下氏は狭量な人間ではない。

そこに一定の合理性があるなら、自分と異なる意見もちゃんと認められる人間である。

だから読者諸君に言いたいのは、(国政)維新の政策や動きが、本当に合理的なものかどうか、維新としてふさわしいかどうかということを判断するにあたって、橋下氏の発言内容と字面が一致するかどうかだけを判断基準としないほうが良い。

もし、橋下氏の次々繰り出す試練を乗り越えられる日が来たならば、それは維新が橋下氏から卒業することに他ならない。

支持者としては、橋下氏から(良い意味で)卒業する日を心待ちにしている。

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