効率と手間、人生を真に幸せに生きること
先日、「ひとり焼肉」を体験してみた。
もともと焼肉が好きだったのと、気ままにひとりで食べたり出かけたりするほうだったけど、たまたま街を歩いていたら見つけた、ので入ってみたのだった。
メニューに目を落とすと、A5和牛を使ったお肉にしてはとてもリーズナブルで、ザブトン、上カルビ、「ちょっといいお肉」でも非常に安い。そして焼肉定食なので、ご飯にスープ、肉を切ったものを提供するので、提供も早い。入店してわずか数分、驚きの早さで美味しい焼肉にありつけたのだった。
昼も過ぎピークタイムは外れたはずなのにちゃんと客足途絶えず賑わっていた。なんて効率的で、合理的。
ただ、徐々に、じわじわとした違和感が広がってくる。
もちろんロースターは一人分ずつ、カウンター席の目の前はうまい具合に仕切りが配置され、向かい側の席の人と目が合わないようになっている。両隣の人はスマホの動画に目を落としイヤホンをつけ、隣の挙動には我関せず。あと意外に肉を焼きながら食べるのは忙しい。
私の中で、「これ…本当にいいのか?」と思ってしまったのである。
(多分その数日前に、至極美味しい焼肉屋さんに、大好きなメンバーで行ってたからというのもあると思うんだけど)
ひとり◯◯というのは私も結構好きで、なんでもひとりで行ってしまうけど、ふと、そのひとり◯◯という喜びに安易に傾倒していたら、真の生きる喜びとか、楽しさを味わえないんじゃないか、と。
確かに、美味しいお肉が安く食べれて、気を使う会話もなくて、行きたい時に行ける、は素晴らしいし、価値だ。それでも、そこに誰かとのコミュニケーションはなく、そして調理という手間すらないと、どこか寂しさすら感じてしまっていた。
これから生きていくなら、安易な幸せ感を得ることに流されず、実直に努力して、真に美味しくて素晴らしいものを手に入れることに価値を置きたい。そして、やっぱり共に誰かとその喜びを共有しながら、ちゃんとリアルな人間関係の上で生きていく、ということの大切さを、かえって感じたのでした。
今の世の中には「インスタントな幸せ」がとても溢れている。
SNSは簡単に「いいね!」がつく。もちろん「わるいね!」はないから一義的には批判を受けない。ちょっと良いレストランに行って、ちょっと"映え"な写真を取ればたちまちたくさんの「いいね!」がもらえる。
ちょっとお金を出せばほどほどにオシャレで美味しいご飯を食べることができる。でもその裏でそこに手間暇がかかっている料理はどれくらいあるのだろうか。ちゃんと厨房で調理されているのものや、その過程をわかって提供してるものはどれくらいあるのだろうか。
1日分の給料でも写真映えする服は手に入る。それでもその多くが一度着て手放されたり捨てられるものもある。本当は大切にデザインされ手掛けられた「魔法みたいな服」を着て、自分をワンランク上げていく楽しみがあるはずなのではないか。
本当に楽しかったり美味しかったり、素晴らしい体験は、時間をかけて、時には大変で、それでもその後に体験できるもの、なのかもしれない。
究極的に手間をなくし効率を大切にしたひとり焼肉を否定しないし、もしかしたら私もまた行くかもしれない。それでも、その場の時間が最高だね!これさえあれば満足だから、他は知らなくていいや!と、思う自分ではありたくない。
時には緊張する会話の場もこなし、箸使いやカトラリーの並びに丁寧な扱いをしつつ、その奥に潜む食というアートを提供する人に敬意を表したい。効率に価値が置かれる世の中に、それでも手間をかけてくれる人がちゃんと評価される世の中であったらいいな。
そんな価値観と生き方が、美しいと思われる世の中でありますように。
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