食べ物のように、良質な情報やインプットを選び取る
いま、自分が触れる各種メディアや情報をできる限りコントロールするように意識している。
それは、受動的に受けるメディアを減らし、能動的に見るメディアに積極的に時間を割こうとできる限り努力するということ。この感覚は、甘いもの誘惑に引かれながらも、頑張ってなんとか身体にいい野菜やたんぱく質を取ろうとする体作りの考えに極めて近いと感じるようになった。
各種SNSのタイムラインを見ていると、あっという間に時間がすぎるものだ。
仲の良い友達の近況を覗き見ること、かわいいなと思う芸能人の日常、フォローしているブランドの新作、そしてそこに交わる魅力的な広告のタイムライン。特にインスタには画像情報があふれていてついつい何も考えなくてもぱっと開きたくなる感覚は、なんとなく静かだと寂しいからテレビをつけるという感覚に似ている。どこか物足りない自分の日常を、「ちょっと素敵な」画像を見ることによって落ち着けるような。無意識にInstagramのアイコンをタップしてしまう感覚は、リアルな現実に疲れたときや、不満を多く感じる時こそ色濃く出る気がしている。
「噛み応えのある」情報は頭に入れるのが困難な時は、結構ある。たとえば自分が触れたことのない域のニュース、ちょっと頑張らないと理解できない展開の本、名作だけどしっかり向き合わないとついていけない映画。これはまさに、一見美味しくなくても本当は体にすごくいい、栄養たっぷりの食べ物のようだ。ぱっとすぐ美味しいインスタントなものや、わかりやすい調味料で仕立てられたファストフードから得られる快感はあまりにも簡単だ。さらに誰も見ていないのならば、それを食べることを止める人は誰もいない。
だからこそ、アイスやシュークリームやクッキーを食べていたら美しい体づくりができないように、意識して変えなければ本質の自分が変わっていかないのだと思う。意思あるNOを出して、本当に自分に必要なものを選び取る忍耐が必要なのだ。
すごく相反する概念だけれど、たとえば何か一つの世界で活躍している人や一流のスターである人や尊敬する人がいたとして、その人のようになりたいのなら、その人のメディアにあまり触れてはいけないのだと思う。その人のメディアを受容しているうちは、オーディエンスの側から抜けられないのだ。その人のメディアを断ってでも自分の何か真に集中すべきことに打ち込み続けたあとに、その人”のように”なっているものなのだ。
情報が溢れ出る日々だからこそ、そして一瞬の隙を許せばすぐに自分の目の触れる箇所に滑り込んでくる抜け目のない情報の世界だからこそ、自分の意思ある過ごし方をすることがますます重要になる。
たまにはネットゲームをやってもいい、インスタの憧れの人を眺めてうっとりする時間があってもいい。それでもちゃんと自分を前に進める時間を自分でデザインしていくこと。自分への自戒の意味も込めて、ここに記す。世界は思ったほど、自分のためを考えてくれないのだから。
意思ある毎日の時間の使い方。それを持っている人とそうでない人で、きっとこの先の人生は、ガラリと様相を変える気がしている。どちらがいいというのならば、自分で選びとれる人生がいい。
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