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家と、リノベと、暮らし方

先日、リノベエキスポに行った。
https://renovation-org.com/expo/2018/tokyo/

リノベエキスポが提案する、住むことの選択肢と、暮らし自体を考える機会。実は食と衣と同じくらい、人生の中では「住」の接点が多いのに、意外に考えにくい、この”暮らし方”のハナシ。
たまに「空気が気持ち良い住まい」や「生活空間がその人のオーラと心地よく重なる家」に暮らしている友人を見るたび、どういう生活をしているとこの暮らしを組み立てる感性を身に付けることができるのだろう、と不思議に思う。

たとえば 「家を買う」という行為は、どうしても独身女子にはもうスーパーヘビー級に重いようなもので(という、個人の印象)、そもそも家を買うって結婚しないと出来ないことだよねとか、家を買うっていうこと自体への理解不足とかパターンと出会うことが、意外に生活していると無いように思う。

そう、自分の住まいをどうするか、ということは、意外とまだまだ人々への提案に穴が空いているように思う。向き合って自分のライフスタイルを組み立てていく一環だと思うと、ファッションも、食も、十分揃い始めてきているというのに。

たぶんきっと、自分の気持ちをこうしたいからこの服を着ようとか、知り合いからもらったこの地域の美味しい調味料で今夜は自分のために一品つくってあげようかなとか、ほんとうはそんな「ちょっとコーヒーでも飲みたいから、カフェでも行くか」くらいの気概で通える何か、提案してくれる何か、が無意識レベルであったらいいな、と思うのかもしれない。

今は、もう、そんなテンションで住まいに関して叶うことは「花瓶を買う」くらいなもの。ちょっと豊かさを感じられる暮らしがしたいなと言ったら「じゃあ花を生ける生活にしよう」ということで物(たとえば、花瓶)を買う。
でも、意外にそれも花を買うっていう行為に依存したりして、花の生けられていない花瓶を眺めては「あぁ、またなんか達成できなかったのだなぁ、」とちょっとうなだれる。観葉植物を枯らしたりも、ときどきするのだ(いや、結構あるかもしれない)。


ほんとうは、住まいは継続的なアクションを自分に課すものではなく、「ただそこにあるだけで気持ちが安らいだりそこで過ごす時間が幸せになる」くらいがいい。


たとえば、
毎日眺める小学校のときに読んだ本の装丁みたいなどこか懐かしい柄の壁にしたいな、とか。
キッチンに立ってふと家事をするときに触れるシンク周りの場所を、ほっとするような素材に変える、とか。
仕事でクタクタになって取り敢えず冷蔵庫の中からビールを出して沈み込むソファの革を心地よくしたい、とか。
もう少し「まいにちの空気」に気張らないのに馴染むような選択肢があったらいいな、とも思う。


センスの良い人、その人を取り巻く空気に心地よいものが流れている人というのは、衣食住、全てのバランスがきれいに取れているような人。

今提案されていることの多くは、どうしても「観葉植物」「食器」「フォトフレーム」など、ものの割合が多く、「運用」を必要とする。もちろんそれで手に入る豊かさや、生活の華やぎもある。
でも、それらを運用できないと、それすら使いこなせなかったダメダメな自分、という烙印を自分で自分に押してしまう。しかも、そのものが存在し続けるため、毎日。
それを繰り返して、暮らしをよくすることに挫折してしまうのだ。


できることならば、
・ 自分の理想の暮らしを実践している人を見つけ、具体的な実現の方法を見つける。
・ 家の組み立て方、暮らしの要素を知る。
・ 自分がどんな生活や時間の使い方をしているのか、何を一番大切にするのかを見極め直す。
・ 自分の望む暮らしを、五感で体感したり、はたまた考えること自体を娯楽の一つのようにプロセスを楽しむ。

そんな要素がナチュラルに学び続けられたら、きっともっと自由な暮らしが手に入る。


目に入るコンセントの山とか、どこか不一致な部屋のファブリックとか、変えたいのにどんなものが似合うかわからなくて決めきれない本棚とか、あらゆる部屋の色調を合わせることとか。どこか生活の中に横たわる違和感とズレを、ゆっくりとでも調和させてくれる、そんな存在。きっとそれは、住だけでなく、生き方やスタイルを育ててくれるものなのかもしれない。

生活をこうしたいから、このことについて考えてみよう、そして、それが良いタイミングで、ここを変えていこう、という、ゆるりのんびり、自分のライフスタイルを自分好みにカスタマイズしていくという、センスとスキルを身につけていく。

そんな「何か」が欲しい。

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