『シングルマン』

トム・フォードの監督デビュー作。最愛の人を亡くした大学教授ジョージが死を決意した一日を追う。

16年間を共にしたジムが死んでからの8カ月、ジョージは過去に囚われ続けていた。毎朝目覚めるたびに「am」「now」と自分に言い聞かせては仮初の自己を現実に繋ぎ止めていたが、それも限界。心が決まると、人はいつもと違う行動をとるものなのだろうか。眼が澄み心が開かれると、世界は彼に呼応する。色褪せた人生に鮮やかな色が差し、青い瞳の天使が寄り添う。

キューバ危機下の1960年代、核の脅威にひりつくアメリカ人たちにとり、恐怖というキーワードは見に迫る感覚のはずだ。しかし若者は何処までも怠惰で近視眼的だった。ジョージは講義でハクスリーの著作を用い、マイノリティへの迫害と恐怖による支配について語る。それが導入となって、学生のケニーは実存的不安を紛らすためメスカリンに頼っていると話す。この辺りに時代性を感じる。

コリン・ファース演じるジョージは感情を殆ど表さない。佇まいや目が物を言う。さすがはトム・フォードといった仕立ての良いダークブラウンのスーツに細身のタイ、黒縁眼鏡がミニマルかつ非常にエレガントで、歳を重ねなければ出せない色気がある。死を覚悟したジョージの硬さと対照的に、ケニーは全身白を基調とした柔らかなファッションだ。画面全てに意匠が凝らされ、建物や内装、着こなしが人物の心情や相手との心的距離感と共鳴している。洗練された交歓。色の違う鉛筆削りを2人が分け合うところは暗示的で、互いの感情が色に、削るという行為が距離感を縮める象徴のように感じられる。刹那的な表装を扱っていると見做されがちなファッション業界におけるトム・フォードの価値観が垣間見えた気がした。ケニーがジョージに向けた「ロマンチスト」という言葉を思い出す。

車の中で、真っ黒な夜の海で、ジョージは自死を二度、ケニーに止められている。それには宗教的素地があるのだろうが、この二度目の救いの後、ジョージの魂は過去から解放されたように見える。生を絶ち切ることで苦しみから逃れるのでなく、今を生きる中で啓示を受け、世界の美しさに打たれる。同志ともいえるチャーリーらへ宛てた遺書を暖炉で燃やし、眠るケニーに微笑むジョージの表情はこれまでにないほど穏やかだった。同性愛ゆえの苦悩やミッドライフ・クライシス、孤独を丁寧に描き出した佳作。

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