『仮面/ペルソナ』
患者と看護師の療養生活を通して人間の本性に迫る作品。精神分析学に基づいた筋立てでフラッシュバック的に映像が挿入され、真実は明言されないものの、綿密に張られた伏線と説明によって示唆される。
冒頭のモンタージュがこれから始まる物語を暗示する。キリスト教における受難や贖罪のイメージ、或いは男性器、焼身自殺する僧侶、武装した兵に怯える少年といったエロス/タナトスを思わせるイメージ――眠っていた少年が目を覚まし、本を読むがすぐに止め、スクリーンに映る女性の顔をなぞる。生身の母に触れることはできない。
俳優エリーサベットは「エレクトラ」を演じている時、突然笑い出し、失語症を発症した。担当となった看護師アルマは荷が重いと感ずるも、献身的に世話をする。彼女は結婚を控え、順調なはずの人生に不安を感じていた。
精神科医は「心身共に問題のない」エリーサベットに対し、これ以上ここにいても仕方がないので医師の所有する別荘で療養しろと告げる。医師のエリーサベットへの語りかけは物語を読み解く大事な鍵になる。
医師は、彼女が他人の目に映る自分と本当の自分との差異に悩み、全てを曝け出したいという激しい欲望を抱えていると見抜く。エリーサベットは外界から自分を守るために沈黙している、そうすれば心にもない演技をし嘘をつかずに済むから。しかし現実は甘くない。
療養というよりも、現実と折り合いをつける準備期間といった感じだ。医師はそこまで理解していて、あとは本人の意識次第と考えている。この場にアルマは居ない。
海辺の別荘で二人きりの時間。アルマは優しく温かく寄り添い、治療のためと思って自分のことをエリーサベットに話す。著名人が笑顔を浮かべて自分の話を聞いてくれる。気を良くしたアルマは、極めて個人的な経験まで打ち明けていく。
彼女は生きがいについて、他に煩わされず、神以外の何かに一生を捧げ得ることが幸福なのだと言う。過去の恋愛で痛手を負った時、その時の自分は偽物で、苦しみだけは本物であり全てだった。彼女は結婚より仕事を選びたいのだろう。
いつも聞き役だったアルマはかつてない程に満たされ、夫や子供のいるエリーサベットを姉のように慕う。患者と看護師の関係が相互扶助を超えて逆転移に至る。やがてアルマは、精神の根底にある過去の経験と葛藤を打ち明ける。全てを吐露し、朝まで酒を飲んでテーブルに突っ伏すアルマ。エリーサベットが体に障ると声を掛けるが、アルマはよく覚えていない。
モノクロームの画面の中、エリーサベットが照明や自然光に溶け込むように存在している。眠るアルマから解離した別の自己のように、音もなく歩むエリーサベット。それぞれの葛藤に苦しむ彼女たちが光と影に対置される。
アルマは投函するために預かったエリーサベットの手紙を読んでしまう。精神科医に宛て、静かな時間に満足していることを報告しているが、アルマがエリーサベットを崇拝していること、アルマが暴露したトラウマのことまで書かれている。そして彼女の観察は面白いと。エリーサベットは、秘密を固く守り全てを優しく包んでくれる存在ではなかった。
陽性であった逆転移は一転し、アルマの心が闇に包まれる。エリーサベットは都合良く精神の下支えを得たが、アルマからすれば、演技者である相手の真意が掴めず、完全に劣勢の立場に陥っていく。これまで白い服を着ていた彼女たちは、このエピソード以降、黒い服や水着を見に付けるようになる。
不安に苛まれたアルマは苛立ちを顕わにし、自分への裏切りを責め立て、掴み合いになる。危機感を抱いたエリーサベットが思わず声を発する。本性はいつも恐怖や不安から顔を覗かせる。なおも憎悪をぶつけるアルマにエリーサベットは笑って見せた。彼女の笑いは自我を守るための抵抗なのだろうか。
エリーサベットは自己に対しては誠実に過ぎるが、アルマを利用する残酷さがある。嘘をつき、深く考えず生きる方が楽だとアルマは譲歩するが、和解の兆しがないのを感じ取ると、あなたは健康である振りをしているだけだと言い放つ。エリーサベットは怒り、一層心を閉ざす。アルマは謝罪するが聞き入れられず、劣等感に泣き崩れる。
追い詰められたアルマはエリーサベットの寝顔を眺め貶す。エリーサベットの首には傷があった。突然、エリーサベットの夫が訪ねてくる。ここも重要な場面となる。
夫はアルマをエリーサベットと認識し、アルマに向かって話し続ける。アルマの背後に黒い服を着たエリーサベットが影のように立つ。エリーサベットに操られるかのようだったアルマは、まるでエリーサベット本人であるかのように彼に答える。夫からアルマへ、そしてアルマからエリーサベットへ、3人の配置と視線がとても印象的だった。
アルマはエリーサベットに成り代わったまま、私を殺せ、全部演技なのだと叫ぶ。自分を裏切ったエリーサベットへの復讐。エレクトラは誰なのか。
破いた息子の写真を見せるよう迫るアルマ。形勢は逆転している。
まるで自身の記憶であるかのように、アルマはエリーサベットの内面を暴露する。初めの頃にアルマが夢見心地で言ったように、二人は余りにもよく似ていた。
――再び写真を見せろというシーン立ち戻る。これは全てを見透かされたように感じたエリーサベットの内面、ではない。現実に語りが始まる。今度はエリーサベット自身が先程と一字一句同じに。だが、言い終わらぬうちにアルマは混乱する。私はエリーサベットではない、家庭に入り子供を愛せるはずだと。真実が固まりつつある。
別荘での生活は終わる。アルマは決してあなたのようにはならないとエリーサベットに告げるが、彼女は未だ内なるエリーサベットと戦っている。内なる? いや、上位の?
言葉を信頼しない「彼女たち」の決別は苦痛を伴う。言葉を信頼しないと言いながら、アルマはエリーサベットに「無」と唱えさせる。別荘では常に私服だったアルマは看護服を着ている。自分の立場が上であると主張しているかのように。
エリーサベットはトランクに荷物を詰め込む。何度目だろうか、エリーサベットがアルマの髪を撫でるシーンが挿入される。一瞬、舞台で演じるエリーサベットが映る。そして、ただ一人バスに乗るアルマ。手にはエリーサベットが荷物を詰めたトランクを持っている。
・・・
彼女たちは一人の人間の内に共存する別の人格なのだろう。夫が妻を間違えるのは非現実的であるし、精神科医の言う「全てを曝け出したいという欲望」がアルマという人格による暴露によって果たされたと考えられる。夫の来訪は予期せぬ事態であり、衰耗したアルマを上手くコントロールし切れなかった。バスに乗り別荘を後にしたのがアルマだったということは、「彼女」は嘘をつき演技をして現実と向き合っていくのだろう。
これは美しく残酷な独白であり、一人の内で繰り広げられる二人の心理劇なのだ。
ただ、この見方では個人の単なる妄想として終わってしまうため、二人は別個の人間として存在していると考えた方が面白い。そうであるなら、アルマはエリーサベットと決別できなかったのではないかと思う。
スクリーンの母の顔を撫でる少年が再び映し出される。顔は消えていく。