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9月1日

 少しは夏の余韻を味わいながら過ごしていきたいと思っていたのに、8月31日をもって夏は強制終了となってしまった。この気候になると猛烈に寂しくなるのと同時に、もうすぐ自分は自分では無くなってしまうのはないかという謎の不安に駆られる事が多くなる。
 昨年から一緒に暮らしていたハムスターの麻理ちゃんが二週間前に死んでしまった。麻理ちゃんの死後から私は虚無で溢れているし、見事に不運な事だらけだ。仕事も上手く行かない事だらけだし、あって欲しくないと強く思う程にそれらが現実となってしまう事ばかりだし。きっと今、麻理ちゃんは「もっと長生きしたかったのに」「もっと大切にされたかったのに」なんて強く思ってるのだろう。私にバチが当たる様に願っているのだろう。ごめんね。恨まれる覚悟はあるから、これからの不運も受け止めて生活を繰り返していくつもりではいる。
 不運と言えば、前述したこの気候。私は秋が嫌いだ。だからきっと麻理ちゃんはこの世界に秋が一刻も早く来る様に仕向けたんだと思う。お陰で気分は最低だ。いくら麻理ちゃんに仕向けられたとは言え、この季節を乗り越えられる自信は私には到底無い。秋になると、色んな事を思い出す。その事柄の殆どが残酷な出来事ばかりで、それらの出来事は全て秋に起こったものだった。だから秋は嫌いだ。「あなたは出来損ない」「早くいなくなればいいのに」「どうせこのまま何も出来ずに死んでいくのよ」もう1人の自分が、脳内に語りかけてくる気がして、どうしようもなく誰かに「大丈夫」と言って欲しくなった時に限って私は独りぼっちだ。平凡な日々を送りたいだけなのに孤独ばかりだ。秋になると、そんなことばかり考えている。
 でもそのお陰で、小さな優しさを噛み締めることが出来るようになった。よく行く近所の小さなコーヒースタンド屋さんに今日も立ち寄り、マフィンを購入した。帰宅後お店のInstagramを見ると、「雨の中いつもの女の子が来てくれてうれしい。マフィンも喜んでいるに違いない」と記載されたストーリーを載せていた。それは私の事だった。それを見て、店員さんだけじゃなくてマフィンも喜んでくれているなんて...と、それだけで涙が出そうになった。誰かの喜びの存在になれた事がどれだけ嬉しい事か、今の私にはものすごく感じ取れるのだ。心が空虚だからこそ。
 麻理ちゃんに恨まれている最中、自分がたとえどんなに小さいものだとしても喜ばしさや楽しさを味わってしまう事には申し訳なさがある。でも、それらが無くなってしまったら、私は本当に私では無くなってしまう気がするから、どうか許して欲しい。ごめんね、麻理ちゃん。

 もうこんな思いさせたくないししたくないから二度とペットは飼わない事にした。今でも部屋には大きな水槽の中に回し車や巣箱が置いてある。まるでドールハウスかのように飾り物と化してしまったが、まだそこに麻理ちゃんが存在しているかの様に少しだけ感じてしまう。毎日あれだけうるさくしていたのに、部屋の中はずっと無音だ。もう二度と、麻理ちゃんに噛まれて血を流す事は無いし、麻理ちゃんの奏でる心地良さとはかけ離れた生活音も聴くことは出来ない。それがどれだけ寂しい事か。この年になっても失わないと気づけない事ばかりで嫌になる。

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