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読書についてー君=花/pigstar:『総合ー人間、学を問う』座談会開催直前

いよいよ、本日開催です。MLA+研究所の鬼頭です。

番外編も次回で最終回とします。(今日ではないかもしれませんが)、会の終了後に更新します。

過去に、要約について、とか、対話実践について、とかについて書いてきましたが、抽象的で、あんまり具体的に書きませんでしたので、その補足を簡単に致します。

「君=花」というのは『純情ロマンチカ』というBLのOPだったものです。

この歌の世界は、「君」と「僕」とで展開され、環境として出てくるのは、「花」がメインで、あとは「空」と「星」です。

そのように考えると、「社会」なんて野暮なものは出てこないかのように見えます。

しかし、ある種の人間関係性を暗示するものが出てきます。花の「トゲ」が「君」の「強が」りを示していて、ということは、「僕」から見る限り、「君」には「強が」るだけの人間関係の摩擦が存在し、少なくとも僕の眼からはその「強が」るとは対照的な「優しさ」が見えている。

花は物理的に存在する何かの花ですが、同時に「君」でもあります。
「君の大好きな花」は花は、「僕」にとっては、「君」と重なってみえるわけで、「僕」から見て、物理的な花が「自分を守」るように見えることが、「君」が「強がる」こととパラレルなわけです。
その意味で、「トゲ」は「僕」と「君」をつなぐものでもあり、「傷」あるいは受苦や痛みを分け合うことで、「僕」と「君」との関係性の成立を暗示しますが、あくまでもこの歌詞世界は、「僕」のモノローグです。
だから、実際には「君」は「僕」が思うほどには、「強がっ」ていないかもしれないし、「傷」ついてもいないかもしれない。
ただ、じゃあすべてが「僕」の妄想か、と言うと、「涙」は見ているので、「君」に何かの葛藤がありそうだ、ということまでは言えそうです。

で、この「僕」と「君」との関係の描き方は、pigstarのPVと、『純情ロマンチカ』のOPで異なっています。
最も分かりやすいのは、下記の本の「解説」で提示されている「パッシング」で説明できると思いますが、ここでは詳しく取り上げません。

(外見から見て)男女関係であるか、男性同性間関係であるか、が最も分かりやすいというだけです。
しかし、PVとOPの映像の違いはそれだけではありません。
「僕」が「君」を見つめる見方も違えば、「花」の解釈も違います。

描かれていないことまでは踏み込めませんが、描かれていることだけに着目をしても、短い歌詞のなかにこれだけの事柄を読み取ることができます。
そして、補助線を引けば、もっと読み取れるはずです。

ただし、ここでは映像化されていないもう1つの見えやすい読みを披露します。
PVやOP、つまりある種の要約や解釈・解説で見えにくくなっていますが、「僕」と「君」が女性同性間関係であるという解釈も実は、成り立つのです。
この他にも性自認や年齢、職業などをかけ合わせれば、幾つもの「僕」と「君」の姿の解釈が出てきます。
このような解釈が可能なのは、「僕」と「君」が「曖昧」にしか描かれていないからです。
とは言え、それでも「僕」と「君」の人物造形の条件は、歌詞で描かれているものの「外部」にはありません。
あくまでも、歌詞と整合的に解釈したうえでの「僕」と「君」の多様性です。
その意味で、歌詞と不整合な「僕」と「君」は、その不整合を説明する補助線が引かれない限りは、「不適当」な解釈、つまり「正解」ではありません。
その判断は、歌詞をめぐって集まった人ー別に生者の集まりである必要はありませんが、少なくとも歌詞の意味を紐解きたいと思っている緩やかで、現実にはその境界線が見えない集まり―が、その都度「妥当性」を判断していくわけですが、その「妥当性」は解釈する人が置かれた状況や集まる人、参考にした他のテクストとの組み合わせでも変わってきます。
だから、どう頑張っても、曖昧に叙述されている限り、歌詞の意味の「正解」が一義的、つまり1つに定まるとは言えません。

歌詞を例に出しましたが、「作品」解釈一般がこのような性格を持つ限り、要約には弊害もあるし、解釈は作品との、そして作品をとりまく作品や人との対話であり、その対話が解釈の「妥当性」を詰めていくとは言えそうです。

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