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対話実践としてのラジオ:『総合ー人間、学を問う』座談会「公開収録」〆切間際

MLA+研究所の鬼頭です。
あと、今日の0時で、お申込みは〆切となります。
ちなみに、今までの記事では、この企画のサブタイトルに触れませんでしたが、「我が閉ざされた足下から開かれゆく世界に於いて、人間たる出来事を掬い取る」です。
”中二病”っぽいタイトルをつけたな、と我ながら思います。


というわけで、余談その2。
この企画は当研究所が対話型鑑賞で培ってきたことの応用であり、実践です。

ミュージアムでは、対話型鑑賞が流行っています。
かく言う私も、対話型鑑賞を知ったのは、大学の「博物館教育論」においてです(ちなみに、旧課程で学芸員資格を満たしていますが、当時は無かった科目だったので、受講をしました)。

ヤノウィン、アレナス、ACOP・・・。
色々見聞きしましたが、私は多くの説明であまり納得できなかった1つのテーゼ(命題)があります。

それは、「対話型鑑賞には正解がない」というありふれたフレーズです。
理論的には「構成主義」、集団によって意味を生成するという訳ですが、この方向は、テクスト論(作品の意味は、色々なテクストの相互関係で決まる)、つまり読者論(作品の意味は読者で決まる)に向かっていくだろうな、という懸念がありました。

対話型鑑賞が敬遠するのは、作者論(作品の意味は作者で決める)、あるいは専門家による意味づけであろうことは想像に難くありません。
その批判としては、テクスト論や読者論は今でも有効です。

ただ、「正解がない」というのは「相対主義」です。
「多様性」を擁護するには、「相対主義」が望ましいと考えられる人が多いかもしれませんが、少なくとも私は、「相対主義」はコミュニケーションには向いていないと考えています。

作品に「正しい解釈」の「想定」が無いということは、読者の好きに作品を受容して良いということになります。
それでいいじゃない?、と思われるかもしれませんが、読者のありのままの読みで「正解」になるなら、お互いの感想をわざわざコミュニケーションする意味はありません。
もっと言うと、読者のありのままが「正解」になるなら、わざわざ作品を見聞きする必要も無いと言えます。
「相対主義」というのは、価値は人それぞれであるという主張だけではなく、それぞれの主張はそのままで価値があるという主張も含んでいるというわけです。
そうすると、世界は「解釈」で成り立っているどころか、「好み」で成り立っていると言っているに等しく、集団で解釈を共有したり、吟味したりする必要がなくなるわけです。

だから、対話型鑑賞の正解が1つに定まるとは限らない、というのが、私の持論です。
では、単なる「好み」の表明でもなく、限られた人がテクストの意味を定めるというわけでもなく、何を以て、作品の解釈の妥当性、つまりどの解釈がより良いと判断できるのか、を見定めることができるのか。
私がここで参考にしたのは、H.G.ガダマーの『真理と方法』とⅭ.S.パースの記号論なのですが、この話は別の機会に致します。
結論だけ書いておくと、対話型鑑賞というのは、目的無き弁証法過程の出来事として生起するということになりますが、もっと簡単に言うと、当人たちが最初に持っていた信念が少なくとも一回は”揺らぐ”かどうかが、対話の意義です。

私は対話をこのように考えますので、単なるモノローグ(独白)の連鎖は対話であるとは考えません。
通常、この手の集まりは、誰かが報告をして、簡単な質疑をして、全体討論をするという〈形式〉で進みます。
ですが、この誰かが報告する時間に対し、聴き手は一体、何をそこから紡ぎ取っているのか、常々、私は疑問でした。
こうした場でのモノローグは一対他の関係にあり、別に時空間を同じくする必然性は無いのではないか、という疑問です(教育学的には、一斉教授法への疑問です)。
それなら、何度でも聞き直すことができ、その人がその人に合った仕方で、その人のメッセージを受け止め、解釈する〈時間〉があって、当日に望める環境を整えた方が良いのではないか。
それで、報告部分は事前配信とし、かつ聴衆に語りかけることを意識して頂くように、登壇者には要望を出しました。
とは言え、そうしたい人にはその環境を整えたというだけのはなしですから、参加者がそのように事前録画を解釈したのかは、当日になってみないと分かりません。

この会の1つのポイントは、〈聞く〉・〈聴く〉という受け身での能動的な行為に掛け金があります。
コロナ禍を経て、対面であればお互いに理解し合えるはずだ、という見解をたびたび聞くようになりましたが、〈聞く〉・〈聴く〉が成り立っていなければ、対面でも、オンラインでも、噛み合ったやり取りにはなり得ません。
そもそも、顔を合わせなければ十全なコミュニケーションが不可能であるとしたら、前近代の人は、遠方の人々とどのようにコミュニケーションをしていたのでしょうか。
顔を合わせなくなったからコミュニケーションができなくなったのではなく、そもそも顔を合わせることによって、コミュニケーションが成り立っているかのように見えていた場合も多いのではないか、というのが私の仮説です。
つまり、顔を合わせていたら、多少言葉足らずでも、〈相手〉が(ある場合は過剰に)汲み取ってくれていたものが、顔を合わせなくなったことにより、不具合が表面化してしまって気まずい思いをしているのではないか、ということです。
もっとも、『聲の形』という作品もありましたが、〈声〉にも文章にも表情があるので、注意深く、受け身的な能動性を発揮するなら、〈相手〉が汲み取ってくれて事なきを得た場合もあったかもしれません。
しかし、奥行きの無い表面がすべてであるという世界においては(ちなみに、奥行きのある表面がすべてだというのは真だと私は思いますが)、そのような〈解釈〉は、簡単に言うと、コスパが悪いと感じられるのではないか、と想像します。
分かりにくい伝え方が〈悪〉だというわけです。
もっとも、私は何でもオンラインで置き換え可能だとは思っていませんが、もし注意深く、受け身的な能動性を発揮されていないならば、対面の豊饒さが捨象されてしまうので、オンラインでも十分に代替できてしまうのだろうな、と思っています。
ちなみに、明日は、対面しているかのようなオンライン企画を目指します。

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