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noteをはじめました。『総合ー人間、学を問う』まであと1週間・・・

皆さま、こんにちは。MLA+研究所代表の鬼頭です。
本日からnoteを始めます。
主催企画『総合ー人間、学を問う』まであと1週間となりました。

前日まで募集しておりますので、皆さまのご参加を心より歓迎致します。

と、最初の記事がこれだけでは少し寂しいので、ちょっとだけこの企画の”余談”をさせて頂きます。

今日は体調が優れず、家で横になっているのですが、時間がなくてずっと聴けなかった『青春アドベンチャー』のとある番組を聞いておりました。

『青春アドベンチャー』というのは、NHKのラジオドラマで、高校生の頃はリアルタイムでよく聞いておりました。

今回、横たわりながら聴いていたのは、『昼も夜も彷徨え』です。

(声優の入野自由さんのファンだから、ということもあります)

原作は中村小夜さん。

今は電子書籍でしか読めないようですが、私は中公文庫の初版本を持っております。

この物語はサブタイトルになっている、ユダヤ教学者のマイモニデス(1138-1204)に取材した歴史小説ですが、私は「政治哲学」者のL.シュトラウス(1899-1973)の著作を経由してマイモニデスを知っていたので、この本が日本で出たときにはとても驚きました。

マイモニデスの名前をそもそも知らない人も多いかと思いますが、ここでマイモニデスの伝記にまでさかのぼっていたら、本題に入れないので、マイモニデスの学問上のおはなしに興味がある人は、以下の本をお読みくださればと思います。


ここで、話題にしたいのは、マイモニデスが歴史的にどういう人物であったのか、ということではなく、中村さんがマイモニデスに仮託した「学問」や「人間」に対する考えかたです。
その片鱗は中村さんご自身でも語られているところですが、あくまでも私がこの小説から学んだ「人間学」のエッセンスを書きしるしたいと思います。
したがって、作者の中村さんのお考えとはひょっとしたら、ズレているかもしれませんが、ご寛恕を乞う次第です。

私がこの物語から学んだのは、「人間は何故に学ぶのか」です。

小説のネタバレになってはいけないので、これからお読みになる方も、すでにお読みになった方にも「ガイド」となるような書き方をします。

・肉屋を営むマイモニデスの母方の祖父が”体現”するユダヤ教
→机上の「学び」が何のためにあるべきなのか、ということを考えさせられます。

・知が持つ権威の問題
→中村さんが描き出すマイモニデスは、一言で言うと権威を好まない「野良学者」です。しかし、彼の父もまたユダヤ教学者であり、代々高名なユダヤ教学者に連なる家系です。彼が幼い頃に経験した「正しさ」をめぐる葛藤、彼の出自が、自ら彼の意に反してもたらす「権威」。その一方で、知を学者の「権威」から民衆に解放し、政治に阿らない姿勢。知が万人に開かれなくてはならないと同時に、確かな知は閉ざされたところからしか生成しないという相矛盾した学者のありようを問いかけています。

・学者のありかた
→マイモニデスが敵対するユダヤ教学者たちを通じて、学者は一体何を仕事とすべきであるのか。あるいは、マイモニデスが人命救助に際して、躊躇わず自分の論文を捨てることが、現代の学者にできるだろうか。どのような学者であれば、「魂の病人」を癒し得るのか。こういった問いが自分のなかを駆けめぐります。

・言葉を紡ぐがわの本人の意図を超えて、勝手に影響する「学び」
→ここで結論を書いてしまうのではなく、ライラやサラディン、ダビデといった登場人物、あるいはマイモニデス自身とマイモニデスとの関わりを実際に追って頂くことで、私が何を書こうとしているのかが、分かるのではないか、と思います。

・人生の旅
→本の言葉を借りましょう。「何かを知れば知るほど、人間の身では永遠に知り得ないことがあると気づく。言葉を重ねれば重ねるほど、言葉にできない思いがこぼれ落ちてゆく。」知れば知るほど、世界について学び手は「分からなく」なっていくものなのではないか。世界について表現できる言葉が増えれば増えるほど、学び手はその限られた体系のなかでは「表現し得ないもの」に自ずから気づくのではないか。人間が成熟するというのは、そのような学びと言葉の真摯な探究を続けながら、その「限界」に行き着く過程なのではないか。

まだまだ言い足りないのですが、あんまり長く語りすぎるのも良くないので、またの機会に自重させていただきます・・・。
しかし、もう1度申し添えたいのは、この本に「総合する」、「人間であること」、「学ぶ」について、考えをふかめることのできる素材がいくつも散りばめられていることです(ちなみにジェンダー的な関心から見た際にも、多様な女性キャラクターの人物造形が、また素敵です)。
歴史小説の常として、この本にも細かな時代考証的な課題を見出すことはできますが、少なくとも私自身は、この本が描く「人間」についての問いを考えるほうが得るものも大きいだろう、と考えております。

最後に、『総合ー人間、学を問う』とこの本には浅からぬ縁が、実はあります。
具体的には、登壇者と参加者の中には、この本を紹介したーされた関係、あるいはこの本から『マイモニデス伝』を読む読書会へと派生した出来事があるのです。
「人間学」の一環として、この本の読書会を、一度企画はしてみたいと思ったものの、そのときには実現に至らず、しかしまたいつ企画してみたいなと、改めて思っているところです。

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