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室越龍之介さんの「会津でLe Tonneau」ふたたび参加してきました!その②

こんにちは。
その①からまた時間が経ってしまいました、ごめんなさい。



さて、さる11月2日と3日、「会津でLe Tonneau」の第2回目が再び会津 下郷町で開催され、今回も2日間参加してきました!

この記事は、2日目「人権史」の講義録です。
1日目「戦争史」については以下をご覧ください。

また、前回、第1回目の「会津でLe Tonneau」の内容は、以下の2つの記事で紹介しています。

ちなみに1日目の講義終了後、室越さん・あいりさん・参加者の皆さんでの懇親会がありました。

まず下郷の居酒屋、かなり良かった。会津田島までいく道はこれまで何十回も通っているのに、こんな店があるなんて全然気づかなかった。これから機会があれば使わせていただきます。

懇親会は楽しすぎてビールもグビグビいっちゃって、アルコールのせいで細かいことは覚えていないんだけど、参加者の方と「ゴールデンカムイ」を熱く語り合ったことと、室越さんがいろんな神社のおみくじを引いたのに全部「身の程をわきまえろ」みたいな内容だったって話をしてくれたことと、あいりさんが「冬の下郷(豪雪地帯)に居たくない」って理由でインドに行って、帰ってきたら水道管破裂してた話とかを覚えています。なんか全部面白かった。

で、前日のビールがちょっと残ってる状態で2日目の講義を迎えたのでした。微妙に二日酔いだったので記憶もメモもさらにあてにならないですが、多分1日目「戦争史」を踏まえて上での、この2日目「人権史」こそが本番だと思うのです。
通史的に歴史を追っていく1日目の講義よりも、2日目はもう少し内容が抽象的で難しくなるかと思います。でも私自身、「人権」に対する認識がかなり変わりました。
なので頑張って書いていきたいと思います!



※これはLe Tonneau室越龍之介さんの講義録です。この記事で何か得られた知識や知見があるとすれば、それはひとえに室越さん自身の知識と講義の巧みさによるものです。

※実際に室越さんが作成された資料を参考にしつつ、あくまで講義中に自分で取った簡単なメモを頼りに講義を振り返っていますので、間違いや思い違いが多々あるかもしれません。
また、講義内容の順番が入れ替わっていたり、飛ばしていたり、私独自の解釈が入ってしまっていることもあると思います。
「それは間違ってる」と思われた場合、その原因は執筆者の私にありますので、ご承知おきください。

※講義録というのは鮮度があるので、すぐに文字化して記録に残さなければならないものなのですが、いろいろあってこのタイミングになってしまいました。これにより、前回記事よりも講義の内容が曖昧だったり抜けていたりすることがあるかもしれません。申し訳ありませんが、ご容赦ください。



2日目

「人権のある社会」の基礎が揺らぎつつある

当たり前に人権を享受して生きている私達。私の友人の中には失業保険をもらっている人も複数いるし、働けない祖父母は年金をもらっている。
誰かが突然私を殴りつけて、強制連行し、拘置所に閉じ込めるみたいなことも多分起こらない。

こうした安定的な世界は、残酷な植民地・帝国主義・全体主義や、差別・偏見の歴史、犠牲になった多くの人々と、それを二度と繰り返さないために戦った活動家たちの功績の上に実現しているのだと、1日目「戦争史」の講義を受けた私はそう強く感じています。
人権は、近代社会の基礎
だけど昨今それが揺らいでいる、と室越さんは指摘します。

・相模原事件――障がい者施設での無差別殺人
・トランプ大統領による移民へのデマ――「ハイチ系移民は猫を食う」
・「ホームレスに生きている価値はない」と主張するインフルエンサー
・大久保公園で立ちんぼをする女性達と彼女らに向けられる視線
・YouTubeなどのプラットフォームに氾濫する「有能/無能」という言説
 (「無能な上司を排除する方法」「有能な人が常に考えていること」)

陰惨な事件から、割と身近でよく聞く話まで、こうして並べてみると、まるで「人権を得るためには条件がある」みたいに思えてきます。
健常者で、経済活動をしていて、日本人で、身体を売ってなくて、会社で優秀な成績を収めている人しか人権はないのか?

特に最後の「有能/無能」の言説は、最近嫌になるくらい目にします。
特に私が転職活動を始めようとしているからか、人事系のSNSアカウントからよくメンションされるのですが、この手の言説が非常に多くて驚かされます。

こうした事象をどう考えればいいのか?
私達はどのようにそれらに抵抗したり、自らを守ればいいのか?

こういう時代だからこそ、いまいちど人権の歴史を紐解いて考えてみようというのが、今回の講義の狙いだと思います。


人権って、なんだ?

「人権」って、なんだか説教臭さが染みついたような言葉かもしれません。
でも一旦それを忘れてゼロベースで考えてみると、どうなるか。


人権とは、権利のひとつ。
権利は義務と表裏一体のように語られることがあります。
よく「権利を得るためには義務を果たさなければならない」ということが言われますが、室越さんに言わせれば、これは少し違っていて、

自分の権利は、他者の義務によって実行される

のです。
たとえば私がコンビニでお金を払う。すると店員はお金と引き換えに商品を渡さなくてはならない義務が生じる。店員はその義務を遂行し、かくして私は商品を所有する権利を得る。
つまり、一人の個人の中に権利と義務が完結しているのではなく、常に他者がいて、他者との関係の中で権利と義務が交換される、ということなのです。
(私の解釈が間違ってたらごめんなさい!)

このように常に他者との関係性のなかに権利があるので、権利は法とセットで考えられてきました。
法によって、「利益を得たい」あるいは「利益を守りたい」という意思を保障し、権利どうしを調整するのです。

じゃあ、権利は権利でも、人権ってどんな権利なのか?

法的権利は大きく2つに分けられます。
公権私権です。

公権のなかには、国家主権や自衛権・徴税権などが含まれます。
ただしこれは「国家が国民を支配するための権利」ではありません。
あくまで国家どうしの関係性において、主権をまもるためのものです。

私権のなかには、基本的人権・幸福追求権・思想の自由などが含まれます。
これは市民の権利です。国家には適用されません。

それじゃ、基本的人権って具体的には何なのか?

一般には、人間が当然にもっている基本的な権利のこと。
ただ、具体的に○○権が含まれているとかいないとか、そういう分類の部分でけっこう解釈の違いがあるみたいです。
個人的に一番馴染み深い分類でいくと、こんな感じ。

平等権 … 男女平等など
自由権 … 思想の自由・不当に拘束されない自由・経済活動をする自由など
社会権 … 教育を受ける権利など
請求権 … 賠償を受ける権利など
参政権 … 政治に参加する権利

これらを精緻にみていくと、人権が守ろうとしていることは
①何者にも「脅かされない」こと → 平等権・自由権
②「自由」に個人が自己決定できること → 社会権・請求権・参政権
だと整理できます。

室越さんによると、大航海時代では、よくその辺を歩いている男を殴って気絶させ、無理矢理船に乗せて漕ぎ手にしたり兵隊にした……ということがあったそうです。
男が不当に殴られたり拉致されることなく(脅かされない)、漕ぎ手や兵隊になることを拒否できる(自由)。そういうのが人権ってことですね。


人権の起源――どうやって生まれたの?

人権と法はセットだと言いましたが、それは人権の概念が法の発展とともにあるからでもあります。

紀元前1700年代、古代バビロニアにおいて「ハンムラビ法典」というものがありました。「目には目を、歯には歯を」というものです。
「自分の目をつぶされたら、相手の目をつぶしてもいい」というのは、一見野蛮な感じがしますが、実際にはこれは「これ以上報復してはいけない」という上限規制でもあるのです。
罪に対する量刑をしっかり定めることによって、罪を犯した個人を、社会からの無限の報復から保護する……これってすごく近代的な考え方ですよね。

しかし中世から絶対王政にいたるヨーロッパでは、こうした「罰の上限を定めるルール」が崩壊し、君主による恣意的な支配がはじまります。

そして、国家権力が暴走し大変なことになってしまった反省から、ついに国家権力を抑制するための近代法の概念が生まれたのです。

法の発展は一直線で、時代を経るごとに良くなっていた……わけではないんですね。

※ここから本格的に抽象的な内容になってきます。二日酔いの私の頭ではすべてを精緻に理解することができず、何度考えても分からないことはすっ飛ばしたりします。ご容赦ください。


近代法の中でもっとも重要なのは、「自然法」という概念です。
人権は自然法として規定されています。
自然法とは、あらゆる時代を通して守られるべき不変の法。
そのときどきで定められたり変更されたりする実定法よりも、優位にあります。

この自然法の起源はなんと古代ギリシア・ローマに遡るというから驚きです。


古代ギリシア・ローマの考え方

ここから一気にギリシア哲学に接近していきます。間違ってたら全部私の責任ですので宜しくお願いします。

古代ギリシア人は人間存在を考察するところから始めます。
人間とは何か?という問いは、もっと詳しくすると、

人間の本質(Essentia) とは何か?
人間の実存(Exisentia) とは何か?

を問うもの。
人間の本質とは、人間のイデアみたいなもの。
たとえば、あなたのことを世界中の誰が見ても、「このひと人間だ」って分かりますよね。個別具体的な人間をいっぱい集めて、抽象化(=帰納)すると、「人間ってこういうもの」ってのが分かってくる。それが人間の本質です。
人間の本質について考えを深めていくと、「人間ってだいたいこういうことしがちだよね~」って、なんとなく分かってくる。これを〈本性の傾き〉という。
この〈本性の傾き〉が分かれば、人間本性の法則があきらかになる。
こういう風に生きれば「人間らしく生きる」ことになって、楽になれるよ~、みたいなやつ。これが自然法の始まりだそうです。

じゃあ人間の実存とは何かというと、人間はいかに存在するか?ということ。たとえば、山に捨てられ狼に育てられた子供がいたとする。言葉は話さず、主食は野生動物の生肉で、四足歩行して群れで狩りをする。こういう存在を人間といえますか?ちょっと微妙じゃない?みたいな感じ。多分。
「人間らしく生きる」とはどういうことか?それは、〈本性の傾き〉から導き出された人間本性の法則に従って生きることだ!というわけです。


なるほど人間については分かった。(分かった?)
でも自然法というのは実際に存在するもので、しかも普遍でなければならない。世界中にはいろんな人がいて、いろんな考えがあるけど、たったひとつの「自然法」をみんなで認め合うことって可能なの?

そこで、認識って何?というのも併せて考えたんですね。徹底してる。
これもふたつあって、

学知的認識(Episteme)
本性適合的認識(Nous)

というそうです。
「認識」の中には、地域によって異なる概念的認識と、人間なら誰しもに共通する普遍的な認識とがある。

前者が学知的認識で、私の理解では、たとえば「国家」という概念は西洋と中国、あるいは農耕民と遊牧民との間で大きく異なります。
農耕民にとっての「国家」が土地と結びつくのに対して、遊牧民にとっての「国家」とは人であり、国家自体が移動する……。この認識の違いについては、「コテンラジオ」のチンギス・ハン編でも言われていました。
一方、後者の本性適合的認識は、意識化・概念化される以前の本質的な認識のこと。認識の本質みたいなもの。たとえば、我々は人間であれば、たとえ赤ちゃんでも〇△みたいな形は認識できる。こうした認識は地域・民族・文化が変わっても共通するはずだ、ということです。


以上により、全人類に通用する、普遍的な自然法がきっとあるはず。
ギリシア・ローマの人たちはそう思ったんですね。

実際に当時の法体系はこんな感じだったみたいです。

 永久法 … 全宇宙を支配する神的摂理の法
 自然法 … 人間に固有の法
 国法  … 国家ごとに定める法
 万民法 … 民族間の法(私有財産制・一夫一婦制・外交使節の尊重)

なんか、思ったよりめちゃくちゃしっかりしてる……。
紀元前とは思えないくらい整った法体系に思えました。


キリスト教世界での考え方

さて、キリスト教が浸透すると法の概念はどう変わったでしょうか。
依然として古代ギリシア・ローマの4つの法概念は残っているものの、これにプラスして「神の法」という概念が生まれます。
これはモーセの十戒や教会法といったキリスト教のルールみたいなもの。キリスト教徒だけに課されるものです。


「近代法の父」グロティウス登場

宗教戦争である三十年戦争でヨーロッパ世界は荒廃しました。30年も戦争が続いたんだから当たり前です。
この惨状を見て、オランダの法学者グロティウスは思いました。

「国家・宗教を超える法が必要だ!」

だけどこれは別に新しい考え方ではないことは、これまで見てきた古代ギリシア・ローマの法から明らかです。
この人が「近代法の父」と言われるのは、国家を超えて適用される国際法を実務として作ったから。「実務として」というのは、ちゃんと法律用語を使って明文化した、ということです。


社会契約の時代到来

17世紀に入ると社会契約の三英傑、ホッブズロックルソーが登場します。
彼らは、古代の「王のいない世界」で人間はどんな風だったかを想像してみた。

ホッブズ万人の万人に対する闘争状態だったはず。だってみんな自分の利益を守るために他人の利益を侵害したはずだから。それで人々は政府というものに自分の権利を渡して調整してもらうことにした。国家権力はこうしてできたんだよ。」

ルソー「いや違う。王のいない世界は平等で平和だった。だってみんな可哀そうな人を見たら助けたくなるでしょ?それは生まれた時から備わっている感情なんだよ。権力が生まれたから平等じゃなくなっただけ。
政府は一般意志を実現するためにある。一般意志というのは、社会全体にとっての利益のこと。政府はこの使命を無視してはいけない。」

ロック「王のいない世界がどうであれ、私達はみんな私有財産を持っている。この私有財産を守るために、全員がちょっとずつ政府に支払って権利を守ってもらってるんだよ。だから政府が私有財産権を侵害しだしたら、私達は抵抗できる。NO!って言っていいんだよ。」

これらの思想は、その後の3つの革命に影響を及ぼします。

名誉革命(英)
 国王ジェームズ2世のカトリック政策や強権的な政治に対して、議会が抵抗し、国王を国外に追放した事件。議会は次の国王ウィリアム3世に対して「権利宣言」=「王は君臨すれども統治せず」を認めさせ、立憲君主制が成立した。

独立革命(米)
 イギリスの植民地であったアメリカが、イギリスから課された重税に「代表なくして課税なし」と反発し独立戦争を開始。これに勝ったアメリカは独立宣言、次いで合衆国憲法を制定し、連邦共和制の採択と抵抗権(=憲法修正2条:人民が武器を保有し、携帯する権利の保障につながる)を定めた。


フランス革命(仏)
 ブルボン王朝の浪費と大不況により国家財政が破綻し、重税を課されたブルジョワ階級が反発、ついで特権の廃止を求めて市民も蜂起した。国王と王妃は処刑され「人権宣言」が採択された。これにより議会制民主主義間接民主制が成立した。

室越さんによると、日本はどちらかというと名誉革命タイプだけど、それぞれが影響しあったり混ざりあったりしています、とのこと。


自然法批判の登場

革命の時代というのは、理性がめっちゃもてはやされた時代でもある。
このハイパー理性主義によって、法実証主義という考え方が登場します。

まって、自然法は普遍的で実定法に優越するっていうけど、そもそもそんなもの本当に存在するの?証明できる?

やっぱり恣意的に解釈できないように、しっかり法律として定めたものだけを守るべきだよ、というわけです。

かつて、王権神授説みたいな反証可能性のないものが法っぽく扱われたばっかりに、国家権力が暴走して絶対主義になった。
私達は理性を獲得したんだから、ちゃんと法律として定められたものだけを守って、そうじゃないフワフワしたやつはしっかり排除したほうがいいよね。
そんな感じです。多分。

しかし、自然法の存在を批判し実定法を優越させるという考え方の浸透が、恐ろしい結果を招きました。

ナチスによるホロコーストです。

ナチスが政権を取った後、ユダヤ人の迫害はドイツの実定法として定められました。
自然法なんてフワフワしたものを排除して、きちっと定められた実定法だけを守ろうという考え方は、”ジェノサイドを実定法に定めてしまうバグ”に対処できず、大変な結果を招いてしまったのでした。


人権の発展

ホロコーストの反省から、再び自然法に注目があつまります。

戦後の自然法=人権の発展には、大きく3つの方向性があるといいます。

権利の細分化
国際化
適用範囲の拡大

基本的人権の中に含まれるものとして、あらかじめ以下を列挙していました。

平等権 … 男女平等など
自由権 … 思想の自由・不当に拘束されない自由・経済活動をする自由など
社会権 … 教育を受ける権利など
請求権 … 賠償を受ける権利など
参政権 … 政治に参加する権利

権利の細分化とは、たとえば、
「自由権を掲げていても、それがちゃんと実装されなかったら意味ないよね。じゃあ実装に消極的な政府には抵抗しなきゃ!」

自由権 → 抵抗権
社会権 → 生存権・労働権・団結権

という感じで、より実社会に適した形に変化ないし付け加えられていったのです。

また、②人権の概念は国際化していきました。
いまや人権はワールドスタンダードになっています。ほとんどの国が「人権」思想を備えた憲法を持っています。
「あ、ウチの国は人権ありません」なんていう国家はさすがになさそうです。

だけど実際には権威主義国家が多数存在し、人権が十分に守られているとは言い難い現状があります。

歴史を見てみると、基本的人権は A.西洋 → B.中東欧・日本 → C."非ヨーロッパ" へと波及していきました。

Bの国々にはドイツやイタリアも含まれます。これらの国々は、民衆が戦って権利を勝ち取った経験がありません
Aの国々に対抗するために、国家主導で人権をインストールした国々です。

さらにCの国々を見てみると、ここには中国やアフリカ諸国が含まれます。これらの国々は、人権を資本主義と一緒に輸入しました。
なので、格差が広がり資本主義への反発が強まっていくと、人権思想をも「西洋的なもの」として批判していくことになっていきます。
本当は全く別の系譜から生まれた二つの思想――資本主義と人権――が、同じカテゴリーで認識されてしまうのです。

こんな風に見ていくと、A→Cにいくにつれて人権への意識が弱まっていくのも分かる気がします。人権が社会実装された経緯が異なると、人権への認識も変わってしまう。
このことを知らずして、現状だけを見て他国の民主主義を批判しても片手落ちだな、と思う訳です。

そしてもうひとつの③適用範囲の拡大について。
第一次世界大戦で、植民地の兵士が宗主国の兵士として戦争に参加したことから、植民地独立の機運が高まったというのは、一日目の「戦争史」の講義で見ました。つまり植民地の人々に人権の範囲が拡大されました。
同じようにして、第二次世界大戦後には公民権運動がおこり、黒人たちが人権を勝ち取りました。
ほかにも、

女性・子どもの権利
セクシュアル・マイノリティの権利
障がい者の権利

と、これまで不可視化されてきた人々の人権が求められていくのですが、多くが戦争と関係しているのは皮肉なものです。

女性・子どもへに人権が拡大したのは、2度の総力戦(第一次・第二次世界大戦)において、男性と同じく国家のために貢献したからです。
兵器工場や兵站工場で働き、前線を支え、男性が戦争に取られた後のインフラや公共交通機関の働き手として、いわゆる”銃後の戦い”をしました。

セクシュアル・マイノリティの権利拡大の運動については、サンフランシスコ市の市議会議員ハーヴェイ・ミルクが紹介されていました。彼は米国で初めて、ゲイであることをカミングアウトしながら当選した議員でしたが、任期1年にも満たないうちに同僚議員により射殺されます。
当時は男性が男性に向かって "ウインクしただけでリンチされ殺される" くらい、激烈な差別がありました。
この事件が契機となり、全米でゲイ・コミュニティーが抵抗運動を開始します。
セクシュアル・マイノリティの権利拡大運動は、まずゲイの運動から始まり、今でもLGBTQ運動の中ではゲイの存在感が最も大きいと言われています。

障がい者の権利拡大については2段階あります。身体障害者の権利については、戦争で多くの人が身体障害を負って戻ってきたことから、早期に取り組まれました。一方、精神障害・知的障害者は取り残されました。
精神障害者・知的障害者の権利拡大運動は今も連綿と続いています。


度重なる戦争と、差別・格差への闘いや議論を経て、人権は理論においても実社会においても拡充された。未だ問題は山積しているとはいえ、1日目の「戦争史」の殺伐とした世界観から、よくぞここまできたなと感じました。


今日の人権

さて、ここまで人権の歴史を通史的に見てきました。なんだか漠然と、世界は良い方向に向かいつつある感じでしたが、実際にはどうでしょうか。


2022年、ロシアはウクライナに侵攻し、戦争犯罪も続発し、世界に衝撃を与えました。ハルキウなどでウクライナ女性へのレイプが頻発しました。戦時下では彼女たちを守るものは何もありません。
戦闘は依然激しく、つい先日には、史上初めて実戦でICBM(大陸間弾道ミサイル)が使われました。

2023年、イスラエルはパレスチナに侵攻し、学校や病院、モスクなどを相次いで爆撃しました。現在まで女性・子ども・病人を含め大勢が亡くなっています。イスラエルの植民地政策は未だ健在であり、西洋諸国がいかに無力であるかを思い知らされました。

外国だけの話ではありません。
次のスライドには、2012年に安倍政権下の自民党で作られた憲法改正草案の一部を提示されました。
それをそのまま転写します。

自民党憲法改正草案解説
「現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説にもとづいて規定されていると思われるものが散見することから、こうした憲法は改める必要があると考えました」(日本国憲法改憲草案Q&A)

また、自民党憲法改正推進本部副部長の片山さつき参議院議員(当時)は、
「国民は天から権利が付与される、義務は果たさなくていいというような天賦人権論をとるのはやめようというのが私たちの基本的な考え方です」
と述べています。

自民党改憲草案そのものも見てみると、

現行の憲法13条
 すべての国民は、個人としては尊重される
        ↓
自民党改憲草案
 すべての国民は、人として尊重される

「個人」という文言が恣意的に削られています。
「人として存在してもいいけど、個人より集団を優先してね」と暗に言われているような気になる。
でもそれって本来の「人権」の意味からは外れていますよね。
室越さんはこうした人権の認識を、バンジャマン・コンスタンが定義している「古代人の自由」だといいます。
コンスタンさん、なんと1767年生まれ。フランス革命の前の方ですよ。この時代の思想家に「古代人」と言われるような草案を、21世紀の先進国日本の政権与党が出してきたことの意味を、もう一度きちんと考えるべきかもしれません。

日本の人権の現状について、あたらめて以下のような問題があると室越さんは指摘します。

・日本における女性の地位
・夫婦別姓
・LCBTQの人権
・死刑制度
・入国管理制度
・自立した個人よりも共同体の安定を重視する風潮

また、世界に目を転じても、依然として以下のような問題があります。

・奴隷問題 → これは「労働奴隷」に形を変えて存続している
・性奴隷 → 女性の地位が低い→貧困→性産業というループが依然存在する
・南北問題
・貧困
・紛争

こうした問題をあえて深く考えず、平凡な日常生活を送り続けることもできるし、室越さんは、そういう人たちを批判する気はないと言います。
ですが、「深く考えず日常生活を送れる」ということは、今ある社会が安定していて、ある程度の人権が守られていることによって可能なのであり、
こうした平穏はいつ奪われてもおかしくない、と言います。

実際、私達は2022年のウクライナ侵攻の際に、それまで普通の生活をしていた多くのウクライナ人が突然生活を破壊されたのを目撃した筈です。

多忙な人や、一心に夢を追いかけているような人に、社会問題にもっと関心を持ちましょうといっても難しいのかもしれない。
ですが、私達が日々仕事や勉学に励めること、夢に向かって努力できることは、実はすごく恵まれたことであり、逆に言えばいつそれが崩壊してもおかしくないのだということを意識しておきたいと思います。


「自律した個人よりも、共同体の安定」について

質疑応答も大変面白かったですが、メモしきれていないので、一部分だけトピックを挙げたいと思います。

室越さんからの返答の中で、次のような言葉が最も印象に残っています。

人権は実は残酷なもの。
居心地の良い共同体から人間を引きはがし、個人として独り立ちさせ、常に賢くあることを要求するから。

帰りの車の中で、友人の一人と女性の地位について話していました。
自民党による改憲草案にショックを受けた、すんごく嫌な気持ちになったよね~などなど。
改憲草案の意図は明らかに、女性に対して「家に入って子供を産め」と求めていて、それは「権利」に対する「義務」だ、と訴えている。
なんで自民党の政治家たちは、個人の自由を制限するようなことを言うのか?だって、自分ももれなく「個人」なんだから、自分にとってもデメリットじゃないか、と。

それで、上記の室越さんの言葉を思い出したのです。
もし女性に完全な人権(「結婚しない権利」「産まない権利」も含む)を認めてしまったら、自分が所属している居心地の良い共同体が崩壊してしまう、という危機感があるんじゃないか。

そもそもこの伝統的な「居心地の良い共同体」というのは、一体だれにとって「居心地良い」のか?
それは家長である男性、後継ぎとなるべき長男、つまり何よりもまず男性にとって「居心地良い」のではないか。
もちろん伝統的共同体の女性が全て不幸だとか言いたいわけではありません。女性にも何かしらメリットがあったはずだし、幸せな人もたくさんいたでしょう。

でも同時に伝統的な共同体によって自己を犠牲にしてきた女性もたくさんいたはずです。彼女たちにとっては居心地良くなんかなかったはず。
ただ、現在の日本でも女性の国会議員は相対的にかなり少なく、国家元首に女性が就いたことは一度もない。
だから「居心地良いわけないだろ!!」という訴えが届きにくいんだなあ。

男女別姓のことで、選択肢が増えるだけなのに、何故か「夫婦が別姓になったら子どもが可哀そう!」って反対してくる人たちも、もしかしたらこういう感覚なのかな。

なんかものすごくすっきり頭の中が整理された瞬間でした。


教養としての人文学

これを書くべきかどうか正直迷いました。もし問題があったら削除します。

資本主義が行くところまで行き着いた感じがする現代社会で、再び「教養」「リベラルアーツ」が注目されはじめています。

最近のSNSやプラットフォームはサジェスト機能がついてるし、私が人文学ばっかり検索するからそういうコンテンツばっかり目に入るようになったのかなと思っていましたが、どうやら本当に注目が集まってるみたいですね。

シンプルに嬉しいことだなと思います。
みんなが本を読むようになれば、街に本屋さんがたくさんできるな、とか、
みんなが教養をもっと身に着けられれば社会は良くなりそうだな、とか、
文系ポスドクの優秀な人たちが活躍する場がもっと増えるといいな、とか、
ナイーブにそう思っていました。

ですが、室越さんはこの「教養」というものを次のように表現していました。

人間が序列をつくりたがる動物である。
(特に男性社会では)、序列の基準は「どれだけ経済的に成功しているか」と「どれだけの女性を所有しているか」だった。
でもいまはそれがだいぶ薄まって、代わりに、
人文学の経済的効用だけを取り出して「教養」とし、これを新たな序列をつくる道具としているのではないか。

たしかに、様々な教養系のコンテンツで、その学びをビジネスに結び付けるような言説が多くあります。
はじめはリベラルアーツがどんな風にビジネスに接続されるのかイメージが付かず、また新鮮だったので、どんどんやってくれ~と思っていました。

でも室越さんの言葉を聞いた時に、それって人文学の学術的な価値を、ビジネスの尺度でしか評価できないことの表れなんじゃないか、とも思えてきました。
だいたい、人文学の「経済的効用」だけを取り出して一体何になるんだろう?むしろ人文学って「経済的効用」なるものを相対化するものなんじゃないの?そんな風に思いました。

しかも、これが新たな序列化の道具となっているなら、なおさら人文学から何を学んでんだ?という気持ちになります。

でも私自身、身に覚えがあったりしますし(海外文学における現代文学より「古典的カノン」を高く評価しがち)、人のことをとやかく言える立場ではないわけですが……。

ただ、最近とくに感じていた違和感、
私の好きな領域の話をしているのに何故かモヤモヤするな、とか、
なんか妙に説教臭いな、とか、
まるで視聴者より自分が圧倒的に偉いみたいな喋り方だな、とか、
単発的に「う~ん」思っていたことが、またきれいに整理されたのでした。

そして、しっかりと人文学の役割を認め、守ろうとする室越さんの姿勢を私も見習いたいな、と思いました。



以上、2日間にわたって行われた室越龍之介さんの講義の内容を、自分なりに整理してみました。大変な文字数になってしまいました、ごめんなさい。
書くことで得た知識が整理され、引出の中にきっちり収められていく感覚がありました。とか言いながら、全然見当はずれなこと書いてないだろうか?とずっと不安です……。
でも、特に2日目の執筆はとっても楽しかったです!

あらためて、このような素敵なイベントを企画してくださった室越龍之介さん、あいりさんに感謝申し上げます。

体験の森mikan で飲んだチャイ。
こんなおいしいもの飲みながら講義を聴けるなんて最高でした。
皆さんもお越しの際はぜひおいしいチャイを。



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