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焼津神社

記事にするのをすっかり忘れていましたが、まだ桜が満開だった頃、静岡県焼津市の焼津神社に行きました。

ずいぶん前に行ったことがあったのですが、全く雰囲気が変わっていました。

駐車場は、神社の脇にありますが、車を止めて入り口まで戻り、大きな鳥居から入りました。

焼津神社の御創建は反正天皇4年(西暦409年)と伝えられており、今から1,600年以上も前になります。
御祭神は、日本武尊ヤマトタケルノミコトです。

この地は、日本武尊が天皇の命で東夷御征討に向かった際、その途上で賊の火攻めに遭い、持っていた草薙剣クサナギノツルギという名刀で草を薙ぎ、さらに向い火をつけて難を逃れた、という伝説があります。

そのため、ここは「ヤキツ」(焼津)と呼ばれるようになったとのことです。

神社を含む一帯では、宮之腰遺跡という1,600年程昔の遺跡が出土していて、古代祭祀の道具や人々が生活していた跡が発見されています。その時代からこの場所に神社があったんですね。

焼津神社は、延喜式神名帳にも記載されて、神階正四位下、という位を与えられていたようです。

室町時代に今川氏が駿河の国を治めていた頃、この地域は「入江荘(いりえのしょう)」とも呼ばれ、焼津神社はその地名から「入江大明神」とも称されてきました。境内にある江戸時代の灯籠には「入江大明神廣前」の文字が彫られているそうなのですが…

帰宅してから知ったので、写真ありません。

今川氏から多くの寄進をうけ、徳川家康にも大事にされました。

なんとこの神社の本殿、徳川家康によって造営されたものだそうです。

神社を入っていくと、手水がありますが、これすごいです。

窪んだ大きな一枚岩です。
そして、センサーがついていて、手をかざすとだけからちょろちょろと水が出てくる仕組みになっていました。

入って左側には郷魂祠きょうこんしがあります。

これなんだろう?
と説明版を見た。

郷魂祠(きょうこんし)は、大東亜戦争の最中、海外(ボルネオ・フィリピン)に第二の生産地を求め、焼津の分郷を築こうと立ち上がった「皇道産業焼津践団」の殉難者300余柱の御霊をお祀りしています。
戦時中には激化した戦況により、漁船の徴用や食料等の統制で焼津の水産業は大きな打撃を受けました。そんな中、海を渡って水産業を再開しようと立ち上がったのが、鰹節業の方々を中心とした「皇道産業焼津践団」です。

皇道産業焼津践団は現地の方々と同じ部屋に寝泊まりをし、一緒になって懸命に鰹節業に取り組んでいましたが、戦争は激化の一途をたどり、多くの人が現地徴兵され、志半ばに戦死しました。
現地では、こうした取り組みに感謝されて慰霊碑が建ち、鰹節からだしを取るという文化も根付いているそうです。

焼津神社HPより

戦争で魚の加工業ができなくなった焼津の人々が、海を渡って水産業ができる、第二の焼津を作ろうとしていたなんて、知りませんでした。

焼津の人の、鰹節業への熱い思いがわかります。

その横には御霊みたま神社。
西南、日清、日露、太平洋戦争の、焼津出身の戦没者の英霊を祀る社とのこと。

西南戦争で亡くなった人もいるのか…
とちょっと驚きました。
政府軍として熊本、鹿児島まで行ったんだなあ。

後から分かったのですが、この建物、移築されて綺麗になってますが、江戸時代中期に建てられた、焼津神社の拝殿だったもののようです。

さて、その近くの看板1

私は焼津のお祭りといえば、東海一の荒祭りと言われる「焼津の荒祭り」しか知らなかった。
白装束に鉢巻き姿の人たちが神輿と共に市内を練り歩く
ものすごい人数で押し合いへし合い、かなり激しいものだと聞いたことがある。
その時の掛け声が
「あいえーとー」
だと思っていたのですが、ネットで見たら
「あいえっとん」
と書いてありました。

このほかにも、「のぼりかつぎ参り」からの「神ころがし」というものもあるらしい。
機会があったら、見てみたいものです。

さて、もう一つの看板

焼津と小泉八雲のつながりは深いらしい。

現在愛知県の明治村にある、小泉八雲の避暑の家は、ここ焼津の浜通りにあった。

小学校で小泉八雲の勉強をした時に、小泉八雲の家があったという場所を見に行った。
そのときはもう、その場所にはなかったけれど…

焼津市の歴史資料館の中に、小泉八雲記念館があったような…?

小泉八雲も度々この神社を訪れたようです。
ということで、本殿まで話がいかないうちに長くなってしまったので、続きは次の記事にいたします。

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