規制権限の不行使(2) 判断構造-水俣病関西訴訟判決を素材として-
前記事では、規制権限の不行使の判断基準を概観した。歴史的にみると規制権限の不行使が問題となったのは、公害訴訟がその走りであった。そこで本稿では、水俣病関西訴訟判決を素材として、違法性判断の構造を検討したい。
1.水俣病関西訴訟判決の概要
水俣病関西訴訟判決(最判平16.10.15民集58.7.1802頁)は、
と、権限の不行使が国家賠償法上の違法を構成する場合の一般論、定式を示した後、著しく妥当性を欠くかという判断の認定で以下の通り判示した。
と、①行使すべきであったこと を示し、続けて
②行使していれば被害拡大が防げたこと を要素に挙げた。
よって、この判決では、水質二法に基づく規制権限の不行使が、①行使すべきであり、かつ②行使していれば被害拡大が防げた場合に、国家賠償法1条の適用上違法になるとされていると考える。
2.①行使すべきであったことの前提として、権限が行政庁にあったこと
①にあたる判旨を示す前に、最高裁は「指定区域に指定し、水質基準を定めること」「特定施設として政令で定めること」といった水質二法所定の手続きがとられたことを前提に、一時停止などの「規制権限を行使するものである」と区域指定や規制権限が、国の権限にあることを確認している。
これは、①「行使すべき」というためには、その前提として当然、行政に行使する権限があることを求めたものであると考える。当該規制権限の行使が具体的な事案の下で法的に可能であったこと(法的許容性)[1]を規制権限不行使の判断構造と捉える見解とも合致する。
判旨は、区域指定や規制権限が国の権限にあることを確認した後、
権限の目的が、原告が侵害されたと主張する権利利益を保護する趣旨であることを認定している。
公共用水域の水質の保全に関する法律(昭和45年法律108号による改正前のもの)1条は、
としている。国の主張の中には、水質二法は多少の水質汚濁を認めている趣旨であるというのもある。しかし生命、身体という重要な法益を重視する最高裁の判例の傾向に鑑みると、「公共衛生」に入ることは明らかで、生命、身体の保護を究極目的と認定した最高裁の判断は正しいと考える。
[1] 西田幸介「規制権限の不行使と国家賠償―「規制不作為違法定式」の判断構造―」法学東北大学81巻6号(2018)213頁
3.規制権限不行使の判断構造(西田説)
西田は、次のような規制権限不行使の判断構造[1]を採るものとしている。第1に、原告が侵害されたと主張する権利利益の保護を当該規制権限が目的とすること(保護法益性)第2に、当該規制権限の行使が具体的な事案の下で法的に可能であったこと(法的許容性)第3に、当該規制権限の不行使が許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠くこと(不合理性)が認められると不作為違法が肯定され、さらに、当該規制権限を行使すべきであった時期(要行使時期)が判断されるようにみえる、としている。
3でみたように水俣病関西訴訟においては、行政庁に権限があること(法的許容性)を確認し、次に生命身体の保護が当該法律の目的であったこと(保護法益性)を判断しており、西田の判断順序とは異にする。しかし、前述のように本件では、保護法益性があることは明らかであるから、特にこの順序の異同に拘る必要はない。
また、西田の判断順序は①行使すべきであったことを判断する際、何をもって「べき」といえるかという「べき」を導き出す要件として、保護法益性、法的許容性、不合理性、要行使時期といった要素を捉えることができると考える。
すべきという社会的、規範的評価を伴う判断において、そのように判断を精緻化する要素といえよう。
4.水俣病の原因物質の特定性と①行使すべきであったこととの関連性
本件において、国は上告理由の中で「水質保全法による措置を採るための前提としては、有機水銀説は余りに未成熟かつ流動的な要素が多かったものである」などと、水俣病の原因物質が科学的に未確定であったから、権限行使をするための要件は満たされていなかったと主張している。
これをこれまで整理した判断基準に沿って検討すると、原因物質が特定できないから、その物質を対象に区域指定するなどの規制をする権限自体が国にはない。行政庁に権限があること(法的許容性)を満たさないから、①行使すべきであったとはいえない、仮に行使していれば過剰規制にあたるという主張であると考える。
それに対し、最高裁は、原因物質を「高度の蓋然性をもって認識し得る状況にあった」と認定し退けている。その最高裁の判断の前提には以下のような考慮があったものと考える。
5.阿部泰隆の説示と予防原則
阿部泰隆は、原因の特定について以下のように論じている。(太字は筆者)
以上の意見は説得的であり、「高度の蓋然性で足りる」とした最高裁の判断にも親和的であると考える。また、生命、身体の損害という損害の重大性を考慮し、原因物質の特定の程度や因果関係の認定に相関させる方法は、損害に発生確率を乗じるドイツのリスク事前配慮原則(Versorgeprinzip)や、予防原則の思想にも近いのではないか。
[1] 阿部泰隆「行政法理論から見た水俣病最高裁判決の評価(2006年)」国家補償法の研究Ⅱ行政の危険防止責任-薬害,カネミ油症,水俣病,災害等-(2019年)信山社318頁
6. 裁量権収縮論と不合理性判断の共通性
権限不行使について、国家賠償を認めるかにつき、一定の場合には規制権限を行使するか否かについての行政庁の裁量権は収縮・後退して、行政庁は結果発生防止のためその規制権限の行使を義務付けられ、したがってその不行使は作為義務違反として違法になるべきとされる裁量権収縮論という法律構成もある。[1]
これに対して、端的に規制権限の不行使を違法とするのが本件をはじめとする最高裁の態度である。権限の不行使が違法となる要件に違いが出てくるとは当然に言えないので、いずれにせよ説明の仕方の問題である。[1]
実際に、裁量権収縮論で説かれてきた損害の重大性、予見可能性、回避可能性、社会的相当期待性(国民の期待)などは不合理性の判断において考慮事項となっているようにみえる。[2]
[1] 塩野・前掲注1)331頁
[2] 西田・前掲注3)219頁
7.まとめ
以上をまとめると、この判決では、水質二法に基づく規制権限の不行使が、①行使すべきであり、かつ②行使していれば被害拡大が防げた場合に、国家賠償法1条の適用上違法になるとされている。
①といえるためには、保護法益性、法的許容性、不合理性、要行使時期を検討する。
そして法的許容性において権限があるかないかの判断にあたっては、生命、身体など損害の重大さも考慮して判断される。原因物質の特定や因果関係は「高度の蓋然性」で足りる。不合理性は、損害の重大性、予見可能性、回避可能性、社会的相当性(国民の期待)などから総合的に判断される。
以上を判断し、①②を満たす場合に国家賠償法1条の適用上違法になると考える。