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羅針盤

タンザニアの豆を買ってよく飲んでいたのに、今朝、氣づいた。「あ、タンザナイトのタンザニアだ」。ラジオで聴いたマサイマラ国立公園の場所を少し前に調べたばかりなのに、そんなこともすっかり忘れ、またグーグルマップで場所を確認している。どうして地図を見る行為って楽しいんだろうネ。珈琲はあまり身体によくないと知り、しばらくやめてみたけど、珈琲にまつわるアレやコレやが好きなこともあってやめられず、代わりに、ニガリや塩をちょっぴり足すようにしている。何故か朝しか欲しくならないので、朝の自分時間の時だけは良し、ということにして。朝を過ぎると、どんなに頭が珈琲をもっとと欲しがっても、身体が受け付けない不思議。

ある時までは、お店の棚に各種の豆とスペシャルブレンドが並んでいたら、ブレンドを選ぶ人だった。色々な豆が入っていて複雑になって美味しいんじゃないか、みたいな表層意識ではハッキリ認識していない幻想を持って。小さい頃に聞いた周囲の大人の呟きって、いつまでも鮮明に覚えているものだけど、そのうちの一つに、一度も外で働いたことのないお母さんの、「挽肉は何の肉が混じっているかわからないから(あんまり買いたくない)」というのがある。その動物的な感覚を、ある時から、私も意識するようになった。そして、こうも思うようになった。「各豆の古い売れ残りをかき集めて混ぜてるんじゃないか」って。私が猜疑心に汚れた大人になった、ってことじゃなく、ただ、違う角度からも物事を見られるようになったってこと。意識が広がったってこと。

最近は、ビール工場での放尿やらカエル肉混入やら、口にしているものを疑うようなニュースを、少しずつその蛇口をひねって、じわじわと浸透させるように出してきてる感じ。それでも、歯が出た/鼻ピアスが出た、いつまでも腐らない、ってニュースの絶えない某ハンバーガー店に、人が絶えることはないけれど。そして、それを口にしないからって、何の安全も保障されないけど。

今朝は、残っていた大根とナメコでお味噌汁。自分の直感が、人生という海を渡っていく時に必要な、唯一のコンパスだ。自分と『ゆっくり』向き合えば、いつも必ず教えてくれる。優しく振動しながら。