教養は世界の解像度を高くする
僕はアートが分からない。
ある友人が美術検定の3級を持っているらしい。
それに影響された別の友人も、美術検定に挑戦したそうだ。
彼らと一緒に、何度か美術館を回ったことがある。
美術系大学の卒業制作展にも行ったことがある。
アート鑑賞は好きである。だが、僕はアートを知らない。
何も勉強したことがないし、見ても正直よく分かっていない。
具体的に言うならば、感想を明確に言語化できない。
ワインを勉強したことがない酒飲みが、「おいしい」か「飲みやすい」くらいしか言えないままモヤモヤするのと同じだ。
知識、経験、知見、あるいは教養といったものは、たぶん世界の解像度を高くする。
美術検定を受けた彼らは、おそらく僕が見ているアートとは少し違うものが見えているんだろう。
同じコーヒーを飲んでも、バリスタなら、僕が思うよりもずっと具体的にその良し悪しを表現するはずだ。
たとえば、僕は最近仕事でWeb広告の運用に関わるようになった。
インターネットを見ているときに広告が目に入ると、それがどういう仕組みで僕をターゲティングしていて、どういう課金設定で、単価はどれくらいなのか等を考えるようになった。
つまり、数ヶ月前の僕が見ていたインターネットとは少し違うものを見ている。
子供がよく聞く「どうして勉強するの?」という問いに対して、それは「世界の解像度を上げるため」なのかというと、必ずしもそうではないと思う。
見える世界の解像度が上がるのはあくまでも結果の話であって、教養を身に付けることの「目的」はまた別だろう。
知っているからといって偉いわけではないし、見えていない方が幸せなことだってあるかもしれない。
とはいえ、「それを知っている人」は「それを知らない人」には見えていないものが見えているのだから、
見えていない人が「そんなことを勉強しても無意味だ」などとのたまうのは、全くもって浅はかである。
いずれにしても、ストックしている知識量によって、同じ状況でもインプット/アウトプットできる量に差があるというのは面白い。
見ているのに実は「見えていない」かもしれないということは、常に意識しておきたいものだ。