サッシャ・ギトリ「あなたの目になりたい」と中途障害について

1943年フランス映画。監督・出演:サッシャ・ギトリ。共演:ジュヌヴィエーヴ・ギトリ。初見、2024年12月13日。アマゾンプライム配信。

この映画は、中途失明してしまうイケオジ、フランソワ(サッシャ・ギトリ)と若い娘カトリーヌ(ジュヌヴィエーヴ・ギトリ)の「無償の愛」、を物語る。大きく述べれば、そういうことになる。以下で、その物語が映画という形をとって語られることについてと、そして視力を失うといういわば「中途障害」「中途障害者になること」ということについてとの物語の関係について、考えたことを書いてみた。

最初は「見えなくなるとあの娘の厄介者になっちまう・・・」とわざと嫌われ身を引こうとするフランソワがいる。しかし紆余曲折あって、カトリーヌは、見えなくなる男であるからこそ、「あなたの目になりたい」と戻ってくる、という話。前半いろいろコメディちっくにいろいろあるのだが、そこはまあとりあえず端折る。2人が結ばれたけどいったんオジャンになってそこからまたヨリが戻るという流れが分かっていれば大丈夫。大事なのはほとんどその、クライマックスにかけて2人がいかに結ばれるか、の場面だ。

「あなたの目になりたい」というのは、いわばカトリーヌの「あなたの妻になりたい」ということと、劇中では同義のものである。しかし、ここで妻になることは、単に健常者の妻になるということではなく、視覚障害者の妻になることである。だから、単に愛し合った男女が結ばれるというだけの話ではない。「障害があってもあなたはその人を愛するのか」ということ、つまり「妻になる」=「目になる」=「介助者になる」ということが問われている。

カトリーヌはあっさりと、健常者どうしの結婚以上にあらわれてくるであろうさまざまな困難などないものであるかのように、フランソワとの過剰なまでの同一化をはかる。そこでは、視覚障害ゆえに予想されるさまざまなケアはその時点ですでに重荷でもなんでもなく、愛することに包含される喜びのひとつでもあるかのようだ。むしろそのような関係性の中にあるからこそ、歴史的に<ケアする性>としての女性の至上の喜び(とされてきたもの)がカトリーヌに内面化されている、と捉えることも可能だろう(クライマックス少し前に視覚障害者ケアワーカーの女性を登場させているのもその符牒か)。

対するフランソワは戸惑いながらもその愛を受け入れる。視力の欠損はもはやその時点で、つまり愛の成就という時点で<障害>ではない。大好きな絵画を見ることができないことも、<記憶の中の永遠性>のなかに美術作品の美のイデアをねじこむことによって、芸術的感性などというものは見えないということぐらいでは失われないのだというロマンティックきわまりない知見を披瀝し(これでフランソワが触覚だけでもなんとかなる彫刻家という設定が生きる)、そしてその障害受容のおそるべき速さに驚くばかりなのだが、「私の目」になってくれるカトリーヌとの同一化へとすんなりと身を委ねてみせる。

この、視覚障害の男性とケアする女性の一体化は、タバコを吸おうとしたフランソワにマッチの火を差し出すカトリーヌの自然きわまりない所作によって完成する。絶妙の介助タイミングである。これはもはや<介助>とも<ケア>とも意識されざるレベルで行われる。むしろ、愛とはそうしたケアもすべて包含した利他行為の集合体として、あるいは理想化された女性的振る舞いとして、画面上の見事に計算された芝居という形を取って示される。

しかし無条件にフランソワはそうした<ケアを受ける>受動的男性としてのみこれからの人生を生きようとはしない。「死ぬまで俺の面倒をみてくれ」というようなことは言わない。どこかで、愛に担保された無償のケアは無限ではないことを予感するかのように、「つらくなったらやめてもいい」と言ってのける。なんとも優しいけれども、完全に女性に依存するようにならないようにしようとするマスキュリニティのあらわれでもあり、介助が負担になってしまったらそれは愛ではもはやないのだから、ということへの憂慮でもあるだろう。だから一時的でいいから、高潔きわまりない演説をぶちながら(<まなざす>こと、すなわち男性的特権性の喪失を実は認めたくないばかりに、視覚に頼らない弁舌の雄弁さという、言語を駆使する<男性性>を頼みの綱に生きながらえようとしている、ともいえるのだが)、ケアを苦労のかかるものとしては考えない愛の一瞬間を美化する。ロマンティック・ラブのひとつの変奏がここに完成する。「あなたの目になりたい」というタイトルを否定してしまうかのように、二人は照明をわざわざ消して、暗闇の中で愛し合う。二人とももはや何も見えていないのだから、そこでは<障害>はそう呼ばれることが一瞬なくなるのである。感動ポルノスレスレの線を行っているのかもしれないけど、障害者モノのお涙頂戴とは明らかに違う地点での、一時的かもしれない(いや、一時的でしかありえない)高潔な愛を、一時的でしかないことをはっきりとわかっているからこそこうして美化し、称揚するのだ。「永遠の愛」が「障害を乗り越える」などという地点はリアリスティックに避けている、ともいえる。

最後に。
わたしの興味は、「障害をものともしない愛」を称揚する物語の生産にあるのではなく、愛がケアを苦も無く包含することで<障害>が消失する瞬間を夢見るロマンティシズムが語られることにおいて、現実の<ケア関係>がどう照射されるのか、という点にもある。もしかしたら、こんな物語をギトリが着想したのは、戦時下において戦争による兵士の失明が増加したこと、いや、もっと広げて考えるならば傷痍軍人という中途障害者の増加が、女性のケア役割の質的変容を招いたケースが多々見られてきたという社会的背景に起因していたかもしれなかったのではないか、というような推測も頭に浮かぶ。戦争が中途障害者を大量に生み出したことも愛の物語の契機となっており、増村保造「清作の妻」や若松孝二「キャタピラー」(これはもとは乱歩)など傷ついた男性性に対するケアの失敗による戦中戦後の悲劇の物語は多く生み出されてきた。このあたりも参照点としつつこの問題系は考えていきたいところであるが、願わくば、このように幸福なエンディングを迎えたカップルが、たとえば増村のもうひとつ「盲獣」(これも乱歩だが)のような歪んだ性愛の世界へと転ずることなく、愛とケアをうまく同居させながら生きていく物語がリアルなものとして想像されることが可能であるような現代であってほしい。最近だと、三宅唱「夜明けのすべて」がそれが物語として示された最良の形ではないかと思っている。

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