過去は動かない。
Facebookはだいぶ過疎化しているけど、私はまだ続けてます。
理由は3つあって、
1 そこでしか繋がっていない大切な人たちがいるから
2 遠くに住んでいる友人がアップする写真が楽しみだから
(遠いとこだと、トルコとロシアに友人がいます)
3 「◯年前の今日」の機能が便利だから
です。
特に3は、過去の自分が何気なく書いたものに元気付けられたりするので、とてもうれしい機能です。
逆に「無くてもいいかな」と思う機能もあって、
まず、ストーリー機能。
これはInstagramにお任せしておいてほしいと思ってしまう。
自分勝手な意見だけど、Facebookはいい感じにダサくあってほしいと思う。
次に、これが一番いらないんだけど、「知り合いかも」機能。
とんだ黒歴史に遭遇することもあるし、他人の「今」に勝手に傷つくことが多いので、わざわざ見せに来てくれなくてもいいでござると思います。
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先日、その「知り合いかも」機能で大学のサークル時代の2つ下の後輩を見つけた。
興味本位で見てみたら、その子は大学時代の誰とも繋がっていなかった。
5年ほど前、とある有名な人の話を聞きに行ったときに仲良くなってFacebookでも繋がった女性がいるのだけど、
Facebook上ではたまたまその女性と後輩が友人として繋がっているため、「知り合いかも」に出てきたようだった。
彼は大学のサークルではちょっと変わっていて、「浮いている」という言葉が合っていた。
空気が読めないというのか、「そこでそれ、言っちゃう?」という場面がいくつかあって、熱い先輩はなんとかそれを直そうと頑張っていたけど、その子はヘラヘラ笑っていて、変わることはなかった。
こういうのは男子特有なのかも知れないけど、「変わっている」といじり倒されやすく、男の子たちからけっこういじられていた。
その時もヘラヘラと笑っていた。
あの時はずっと笑っていたけど、今、Facebookで大学時代の誰とも繋がっていないところを見ると、彼にとって大学時代は暗く辛い時代だったのかな、と推察された。
少し気になって彼の投稿を見てみたら、遠い地で、カメラを片手にいろんな人の笑顔を撮り続ける活動をしているようだった。
頻繁に更新もされていて、投稿のひとつひとつ、コメント欄でのやりとりから、すごく明るい青年になっていることが読み取れた。
彼のプロフィール写真はキラキラとした笑顔だった。
あの時のヘラヘラとした、薄皮一枚の向こう側はどんな表情してるのか分からないような笑顔では無く、心の底から、魂の奥から笑っているような、信用できる笑顔だった。
それが私はなんだかとても嬉しかった。
「ああ、良かったね。生きる場所を見つけたのだね。」
とじんわりときた。
気持ちが昂ぶって
「久しぶりです。元気にやっていますか。」
なんて、メッセージを送ろうかと思ってしまったけれど、その続きが考えられなくて、やめた。
彼にとっては私も冬の時代の一つに過ぎないかも知れない。
思い出したくない過去が蘇ってしまうかも知れない。
それに、あの時から変わったからこそ顔を見たくない相手かも知れない。
そう思って「戻る」ボタンをそっと押した。
彼とはまた会うことがあるかも知れないし、もう二度と会うことは無いのかも知れない。
先のことは分からない。
でも、今は会っちゃいけない気がした。
過去の方から会いに行ってはいけない気がした。
「どうか、私の知らないところで彼が心から笑えていますように」
ひっそりと祈った。