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理の親(3)…理の親の本質

第三章 神か人か

「…ここにいよいよ、親神直々のだめの教えが垂示された。けだし十のものなら九つまで教え、なお、明かされなかった最後の一点元の親を知らして、人類に、親神の子供たるの自覚を与え、一れつ兄弟姉妹としての親和を促し、親子団欒の陽気ぐらしの世と建て替えようとの思し召しからである。…」教典第三章「元の理」

しらするもなにしらするとをもうかな                       もとなるをやをたしかしらする      (第九号26)

天理教立教の意義とは、元なる親が直々にこの世の表に現れ、人類(子供)を救済するという事にある。

「…この人ににをいを掛けんならんと思えば、道の辻で会っても掛けてくれ……隅から隅まで心おきのうやってくれ。ころっと風を変え、直接や(親神様直々の教えである)と言うてくれ…」(M/40/4/7)

イエスと教祖、ブッダと教祖の違いが分からなければ立教の意義を理解した事にはならない。イエスもブッダも人類の「代表」(※1)であって、「親」ではない。人類の親は教祖おひとり、「十のものなら九つまで教え、なお、明かされなかった最後の一点元の親を知らして」と教典にあるように、立教の本義とは元の親を人類に知らせる事にある。そこで、教祖は…

①親でなければ通れない道「50年の艱難辛苦の道中」を通られ、千里の藪を切り開き、子供達が通る事の出来るように「ひながたの道」を付けられました。夫や子を持つ一家の母親でありつつ(イエスやブッダは独り身)、神の道を通ると言う艱難辛苦の道を通られました。この事をおさしづでは

「難しい道はをやが皆通りたで、をやの理思えば、通るに陽気遊びの理を思え」(M 21/10/12)

難しい道」とは、端的に行って「家族同伴の道」の事だと私は思う。一人ならばどんな荒道であっても挑戦する事は可能であるし、そこを通り抜ける事も不可能ではない(イエスや仏陀)。しかし夫や子供を同伴した道、それはいわば両足に重荷を付けて歩くような道であり、一歩前に進むのも容易ではない道ではないだろうか。現在でも教会長家族は同じ道を歩んでいると思う。ただ、ここでは最初に歩んだ教祖の道と比較すれば「陽気遊び」だと言われている。

②親しか知りえない話「元始まりの話」を教えられ

③親でなければ出来ない働き「不思議な霊救」(「おびや許し」や「雨乞いづとめ」「身上救け」「死者の復活」…etc)をこの世に現して人類の親である事を実証した。まさに

二ツ ふしぎなたすけはこのところ
をびやほうそのゆるしだす

十ド ことしハこえおかず
じふぶんものをつくりとり
やれたのもしやありがたや

である

そして世界人類救済の段取りをつけ、明治20年に身を隠された。その段取りとは、一つは「かぐらづとめ」によって親の働き(人知の及ばぬパワー)をこの世に現し、親である証拠を示す事。もう一つはよふぼく(※2)が入り込んで親の働き(奇跡)を現す事(おさづけによる霊救…etc.)である。この二つによって人々の心を澄まし、神の話を分かるようにする。前者はぢばを中心として行われ、後者はぢばを離れた土地所にて実現される…以上が存命の教祖に託された人類救済の段取りであった。ここで私達に直接関係があるのは後者である。

「理の親」の由来

だんだんとよふぼくにてハこのよふを
   はしめたをやがみな入りこむで    (第十五号60)

これから先は、「よふぼく」に「この世始めた親」が入り込み、「親の働き」を現して人間を救ける…とおふでさきに書き残された。この道の救済とは人間(よふぼく)にこの世始めた親が入り込んで実現される。姿は人であるが、救け主は親(神)である。

姿は人間であるが、理の上では親(神)これが「理の親」という文言の由来だと考えられる。

親(神)が人間に入り込んで世界救けを始める事は、こふき本を参照すれば、尚一層に理解される

…国のほんぞをこしらいよふと神の急き込み。此噺しも、皆の者中でゆふやなし…(M18/3/28) 根のある花・山田伊八郎 P41

:…国々所々に道の芯となって人を導くよふぼく(本尊)をこしらえようと神は気を急いている。この話は皆の中では言ってはならぬ(前掲書P43)

こふき本では、おふでさきに登場するよふぼく国の本尊と言われた。本尊と言えば礼拝の対象となるような神的存在を意味すると思う。そうした人間を拵えて世界救けをしようというのが神の計画である事が理解できる。

既に、教祖ご在世時代から、深谷源次郎をはじめとして神のよふぼくが活躍していた事は周知の事実だが、明治20年代に形成された縦の系統を軸とした教会制度の中でも、この神の計画は実現されていった。

第一章の最後に補足として取り上げた城島分教会の後任問題などはその良い例で、親神様は山田伊八郎よふぼく(本尊)とする事を決めておられ(上記のこふき本:山田本)、現実には城島分教会の教会長という立場が用意されていたと考える事が出来る。

山田伊八郎の例からも、教団組織においては教会長という立場よふぼくを配置された事は明らかだと思う。本席時代、教祖ご在世当時の蒼蒼たるメンバーが各系統のトップの会長に就任し、道は燎原之火の如く伸びていった。その有様は第二章で引用した中西牛郎著「神の実現としての天理教」の中に詳細に明記されている。

まとめ

①姿は人間であるが、理の上では親(神)これが「理の親」という文言の由来である
②理の親子という信仰形態は「親が子を救ける」という「立教の本義」から演繹される人間救済の「究極的な信仰形態」である

ようぼくは、教祖(親)の名代として世界に向かい、親心をもって救済に関わる。救けの親は親神様・教祖であり、よふぼくはただの人間にすぎない。しかし、よふぼくに親が入りこみ、救済が成就した時、よふぼくは理の親と呼ばれる立場になる。こうして信仰に導いた者が理の親と呼ばれ、導かれた者が理の子と呼ばれる理の親子関係が成立する事になる。

以上が、お道の伝道形態である以上、理の親子の信仰形態の衰退はお道の衰退を意味すると言わなければならない。ただ、現在の教団組織の中で理の親としての立場にある人間が、ここで取り上げた理の親と重なるかどうかは別問題である。「理の親の器の欠落」こそ最重要課題であるが、この問題の詳細については第四章に譲る事にしたい。

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※1 天理教教義にもとづく理解であり、キリスト教や仏教の立場からの異論や反論については考慮しない

※2 現在使用されているよふぼくという文言と、おふでさきに登場するよふぼくという文言との比較及び定義は一旦棚上げしておく。また、その教義学的な意味に言及すると面倒な議論になってしまうのでここでは取り上げない


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