はじめに 原典の解釈、だれもが一度は挑戦すると思う みかぐらうた第一節「あしきをはろうて」の意味を探ってみよう いったい、誰があしきを払うのであろう? ある者は人間が自分のあしきを払うのであると説く それは、手振りが胸を払うからであるからと説明する ある者は神様があしきを払うのであると主張する それは、あしきは人間には払えないからなのだと主張する Sweeping away evils,please save us,Tenri-O-no-Mikoto. (THE DOCT
教祖の側近者の記録梅谷四郎兵衛 神様は、すべてのものはかしものである、と仰せられる。家財、田地、蔵(高弟列伝第六編 梅谷四郎兵衛傳 P13) 高井猶吉 教祖から聞かせて頂いた話でも、わしは何回でも同じ話をする。何回話しても一字一句違わんように話しする。自分の考えや、勝手な言い回しは一言も入っていない… 身上があるで、くふものはじめ、万事いりようである。み上があるで、田地、田畑、金銭をも、ほしいといふのやろう。そこで、ばんぶつは、身上につきそえてかしたるものと仰有る… (正
出直しの教理天理数では、一般に死と言われていることを出直しという言葉で表しているが、出直しには、最初から新しくやり直すという意味が含まれている。いわゆる死が、この世での生の終結を意味するのに対して、出直しは、この世で再び生命を得るために、新しく再出発するという意味をもつ。 人間は魂(心)と身体からなっているが、人間の身体は、親神からの貸しものであり、人間が親神から借りたもの、すなわち、「かしもの・かりもの」であり、人間は、「かしもの・かりもの」の身体を借りることによって、生
関根豊松 不朽の名講話
はじめにある方が本部出版の著書の原稿を書いて提出すると、青年会本部の○▽氏から訂正の連絡があったという。その内容とは「借り物は身体だけに限る」というものだったそうである。相談を受けた私は、こんな問題が未だに起こるのか、と愕然としました。借り物が身体だけだと言うなら、他はどうなるのだ、…身の内はもちろん、身の回りのもの一切が借り物だからこそ大事に扱い、人生のあらゆる局面で感謝と報恩の信仰ができるのではないか、それこそ親神様、教祖が人間に教えたかった信仰生活ではなかったのか…天理
路傍講演2017 この場をお借りして一言お話を取り次がせて頂きます。 日本は温帯気候の国であり、春夏秋冬の四季があります。春には桜が咲き、山々は新緑に包まれ、穏やかな日々が続きます。少し暑くなると梅雨が訪れます。毎日曇り空のうっとおしい日が続きます。そして入道雲と夕立、稲妻と雷の音が聞こえるようになると、いよいよ夏の訪れとなります。炎天下の日々、暑いお盆、そして、ひぐらしが鳴いて夏の終わりとなります。9月には台風がやってきます。田畑にトンボが飛ぶようになるともう秋です。日
立教百八十六年 中元祭祭文 これの神床にお鎮まり下さいます親神天理王命の御前に天理教○○○分教会長・○○○○、慎んで申し上げます 親神さまには一列の陽気ぐらしを楽しみにこの世人間をお創り下され、限りないご守護と段々のお仕込みによりひたすら成人の道をお連れ通り下さいます親心の程は誠に有難い極みで御座います。私供は真実の道を歩ませて頂く幸せを胸に、世界たすけの御用にそれぞれの立場で届かぬながらもつとめさせて頂いて居りますが、わけても今日の吉き日は恒例に倣い、おぢばのお許しを
「お助け」と「お救け」最近、理の親とは親神様、教祖だけだと言われるようになった。その理由はいろいろあると思うが、元々理の親とは人を指して使われてきた文言であり、親神様や教祖を指して言われてきた言葉ではない。おたすけとは教祖の名代となって世界助けのお手伝いをする事、つまり親の心となって身上事情で悩む子供達に救済の手を差し伸べる事だと教えられている。おたすけの現場で、自分の子供ならばどうするのだ!という自問自答の中にこそ親神様、教祖にお働き頂ける理が存在する。教祖の名代としての自
縁談 …… 遷宮した翌年の二月に静子が結婚、その四月六日は覚逸が結婚と、めでたいことが続いた。それから以後、保和子は給料の半分を十五年間続けて御供えしたのであった。それで物見遊山も映画もやめ、着物を買う事もやめた。教会への参拝にも、二銭を惜しんで歩いては御供えしたこともある。 やらせて頂いて十年ほど経ち、保和子は三十二歳になったが、なかなか会長様がいいとおっしゃらないし、縁談もなかった。縁のないのが結構ですよ、と言われた。 十三年経った頃、帯の布地をしまっておいたのが見
ここに数千、数万のロウソクの炎が燃え盛っている 嵐がやってきて 風が吹き 雨が降り ロウソクの炎がすべて消えてしまう だが、その暗がりの中に一つだけ燃え盛る炎がある どんな風にも どんな雨にも 消える事のない一灯である 嵐が去り この一灯の炎を一つひとつ分けてあげれば また、数千、数万のロウソクに火が灯り 世は暗がりの世から明るい世界に様変わりする 誠の一灯 ゆるぎない信仰の灯である
『神様(教祖)、私ども(増井りん)は「あほう」でござりまする』と申しましたならば、『さようかえ、おまえさんは「あほう」かえ。神様には「あほうが望み」と仰るのやで、利口の者は付けん。人が小便かけたならば「ああ、温(ぬく)い雨が降ってきたのや」と思うて喜んでいるのやで。人が頭を張れば「ああ、あなたの手は痛いではございませんか」と言うて、その人の手を撫(な)でるのやで』と仰る。『その通りに優しい心になるのやで』と、お聞かせ頂いております。『人がきつい言葉を言えば、われ(自分)もきつ
第三章 神か人か天理教立教の意義とは、元なる親が直々にこの世の表に現れ、人類(子供)を救済するという事にある。 イエスと教祖、ブッダと教祖の違いが分からなければ立教の意義を理解した事にはならない。イエスもブッダも人類の「代表」(※1)であって、「親」ではない。人類の親は教祖おひとり、「十のものなら九つまで教え、なお、明かされなかった最後の一点、元の親を知らして」と教典にあるように、立教の本義とは元の親を人類に知らせる事にある。そこで、教祖は… ①親でなければ通れない道「5
第二章 発生と展開第一章では「理の親」に関する文献資料を検証した。そこでは「理の親」とは親神様・教祖を指し示す言葉ではなく、人を指す文言であった事が明らかとなった。 中山善衛三代真柱様が「かなめ会」 の席で「理の親という言葉は、教祖以外に使うべきではない」と言われたとか、みちのとも昭和47年3月号で「私たちの親(理の親)は、親神様・教 祖以外におられないのです」と言われたなどという怪文書がネットにアップされた事がある。ただ、それが荒唐無稽の改竄捏造文書である事は既にnote
第一章 文献資料の検証従来、理の親という言葉は信仰活動の中ではとても身近な言葉で、特別な文言ではなかった。ところが現在では忌み嫌われている為であろうか、あまり頻繁には使用されなくなってしまったように思う。昨今、この文言が取り上げられる時には、伝統的な意味が排除され、それは人を指すものではなく、親神様・教祖だけを指す言葉だ、などと言う意見が散見されるようになった。冷静に教史を振り返るならば、「理の親」とは親神様・教祖を指し示す言葉などではなく、人を指す文言であった事は自明のこと
天理教辞典に、明治37年「この年、教内廓清のため、教師1400余名を淘汰免職」とあります。この出来事について「不良教師事件」という名の下、当時の教会本部が教内の反教団分子の粛清を行ったと言う物騒な話としてネット上にアップされる時があります。この怪文書について、その真偽のほどを検討してみたいと思います。 冒頭にアップした画像は某HPに掲載されている記事です。不良教師事件として天理教twitter村に配信されている記事の元になっていると考えらえれる記事です。この某HPは真面