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教典第七章『かしもの・かりもの』を検証する

はじめに

ある方が本部出版の著書の原稿を書いて提出すると、青年会本部の○▽氏から訂正の連絡があったという。その内容とは「借り物は身体だけに限る」というものだったそうである。相談を受けた私は、こんな問題が未だに起こるのか、と愕然としました。借り物が身体だけだと言うなら、他はどうなるのだ、…身の内はもちろん、身の回りのもの一切が借り物だからこそ大事に扱い、人生のあらゆる局面で感謝と報恩の信仰ができるのではないか、それこそ親神様、教祖が人間に教えたかった信仰生活ではなかったのか…天理教の根本教理である「かしもの・かりもの」の教理が歪められていると思った私は、どうしてもこの問題をスルーする事はできず、noteで取り上げ、検証してみる事にした

天理教学研究33

この問題を考える上で、避けては通れない資料があります。それは天理教学研究33に掲載された深谷忠政氏の「かしもの・かりもの」の教理に関する見解であります。たぶん、これが誤解の原因となっているのではないか…

問題の資料の全文を以下に引用し、その内容を検証してみたいと思います

天理教学研究33 深谷忠政先生に聞く

「かしもの・かりもの」の教理について、すこしお伺いしたいと思います。かつては、われわれの身 体だけでなく一切のものすべてが親神様の「かしもの・かりもの」であると説かれたこともあります。深谷 先生は、「かしもの・かりもの」とは「身上かしもの・かりもの」というように限定して使うべきである、 と言われていますね。

それは、そのとおりだと思います。むかしは、われわれが生活するのに必要なもの、衣食住のすべてのものが 「かしもの・かりもの」であると説かれたことがありますが、それでは、やはりいけないと思います。
原典によ れば、身上が「かしもの・かりもの」なのであって、衣食住は天の与えであると教えられていますので、このよ うに区別しておく必要があります。これが、原典にそった理解のしかたです。『天理教教典』においては、この 点について、とくに注意が払われています。
しかし、むかし、衣食住のすべても「かしもの・かりもの」である、という説きかたをしたのも仕方ないこと かもしれません。「おふでさき」が公刊されていなかったし、「おさしづ」も手にすることができませんでした から
、原典を勉強しようと思っても勉強できなかったからです

天理教学研究33

要点は以下の三点になるかと思います

①借り物は身上のみ(衣食住は貸り物ではない
②衣食住は借り物ではなく天の与え
原典にそった理解でなければならない

深谷氏の発言の通り、原典を紐解いてみました。
まず、身上はかしものかりものという点ですが、これは原典に明記されており、その通りではあります。ただ身上に限るといった文言やそれを意味する言葉は存在しません。

(A)身上はかしものかりもの
(B)かしものかりものは身上に限る

(A)(B)はキチンと区別しておく必要があります。深谷氏の発言内容は(B)であり、(A)ではありません。(A)は原典に何度も登場するが、(B)は存在しない。つまり厳密に言えば①を意味する文言は原典には存在しないという事になるかと思います。

次に衣食住は天の与えであると教えられていますと深谷氏は発言されていますので、原典で本当に教えらえているのかどうか確認してみたいと思います

本当に衣食住は天の与えだと教えられたのか?

あたえ」という文言は原典に確認できる。

ぢきもつをたれにあたへる事ならば
このよはじめたをやにわたする(9-61)
天よりにあたへをもらうそのをやの
心をたれかしりたものなし(9-62)

をもしろやをふくの人があつまりて
天のあたゑとゆうてくるそや(4-12)
つとめさえちがハんよふになあたなら
天のあたゑもちがう事なし(10-34)

なんでもでんぢがほしいから
あたへハなにほどいるとても(7下り目7ツ)

おふでさきに登場する[あたへ]はじきもつであり、[天のあたゑ]はご利益の事であって、借り物の教理とは全く別の話題である。また、みかぐらうたに登場する[あたえ]は田地の値打ちと言った意味に使用され、やはり借り物の教えとは無関係だと言わざるを得ない。さらに、おさしづでも衣食住は借り物ではなく、天の与え…などという意味のお言葉はどこにも確認する事はできない

つまり、衣食住は天の与えであるとは教えられてはいない

以上の事から①も②も

原典に沿った理解ではない

と言わざるを得ません

ちなみに教典第七章には深谷氏のような見解は記述されていません。身の内はかしもの・かりものであるという事だけが記されています。身の内に限るとか、衣食住は借り物ではなく、天の与えであるなどと言った見解は第七章だけではなく、教典全体を通して確認する事はできません

現在、「借り物は身の内のみ」というのが公式見解のように発言される事が散見されますが、これは公式見解と言えるものではない(原典にも教典にも書かれていない)事が判明したと思います

(※三原典に根拠のある反論であれば、お聞きしたい)

さて、ここで深谷氏が否定した『むかしの信仰』についてはどうなるのか…検証してみたいと思います

教祖が教えられた[かしもの・かりもの]の教え

普段、私達が信仰の上でかしものかりもの(※以下、借り物と表記)の教理を説く時、「身体は神様からの借り物、心一つが我の理であります。また、この世は神の身体ですから、私達の身の周りにあるものはすべて、妻も夫も子供も、さらには衣食住も神様からの借り物。大事な借り物ですから、常に感謝と報恩の心をもって接する事が最も重要な信仰信条となります」と説いています。

借り物の理の教話は、様々な文献に登場します。例えば逸話編114には泉田藤吉が追いはぎに会った話がありますが、すべては借り物である事を教祖は教えられていた事が記述されています。諸井政一氏が教祖の高弟から聞いた話を纏めた備忘録(「正文遺韻」)がありますが、これにも教祖の話として、借り物の理が詳しく記述され、身の内だけではなく、衣食住を始め万物が借り物である事が記述されています。このnoteでも➜˧「万物は身上に付き添えて貸したるもの」と題して高井猶吉の証言を取り上げましたが、借り物の理について教祖がどんな文言で教えられたのか、高井氏の正確な記憶をそのままに掲載しました。冒頭に画像としてアップしたものは、立教百八十四年十月二十六日、陽気ホールで挨拶された真柱後継者・中山大亮青年会長さまのご講話ですが、逸話編39を引用して「この世にあるものはすべて神様からのかりもの…」であると発言されています(※青年会長様の発言を青年会が公式に否定するのはいかがなものか?)このように、伝統的に説かれてきた借り物の理の教説は、現在でも教祖の教えどおり(深谷氏の言葉を借りれば「むかしの信仰」のまま)に説かれている事実を再確認しておきたいと思います

教典の立場

ここで教典について少し考えてみたいと思う。教典には「身の内はかしもの・かりもの」とだけ記載され、衣食住や万物については触れられていません。要するに教典では身体以外についてはノーコメントの態度でこの問題をスルーしている。これは教典編纂のコンセプトに由来するものだと考えて良いと思う。

教典は本教の教えを簡潔に纏めたものであり、親神様、教祖が教えられた真理を誤謬なく記述する事を目的として編纂されたものである。教典の記述では、三原典に登場しない文言や話題はすべて削除され排除された。これは教典編纂の趣旨から考えれば、当然の事であり、だからこそ信仰する者は教典を基準に教祖の教えを学ぶならば、間違いない信仰をする事が保障される。

要するに、教典は三原典のフィルターを通したものだけを採用し、編算されたものだという事を抑えておく必要がある


ただ、教典第七章については、以上のような教典編纂のいきさつに配慮しつつ、教祖の教えが漏れ落ちる事がないように、天理教事典の「かしもの・かりもの」の項目で……

この教理をいかに理解し、いかに悟るかについては、様々な見解がある

天理教事典

と、かしもの・かりものが身の内に限定されるものではない事を暗に指摘している。

三原典と教祖高弟の記録

ここで改めて問題を整理したいと思う。問題は三原典のみを神の教えの記録とし、他を排除しても良いのかという事になるかと思う。たしかに三原典は他宗教には見られない書物である。教祖が筆を執ると、ひとりでに筆が動いて書き残されたのがおふでさきであり、教祖が詠われた文言を書き残したのがみかぐらうたであり、神の啓示を速記したものがおさしづである事から、三原典こそ神様の御言葉そのものを記録した書物には違いない。ただ、だからと言って、教祖の高弟が記録した教話は神の話として採用してはいけないのか…という疑問が残ると思う。この疑問について芹澤茂氏が一つの見解を述べているので以下に引用する

仏教の経典の場合を例にとると、お経の書き出しは、如是我聞 (かくの如くわれ聞けり)とい 文句で始まる。これを仮りに如是仏説(かくの如く仏ーブッダー説けり)という文句と対比し てみると、お経は、弟子がブッダの説く所を聞いて、理解し、悟ったものを述べているというこ とになる。ブッダの言葉そのままではない。それ故、厳密に考えると、お経からブッダの言葉を 探すことは不可能であると言う人もある。しかし宗祖と弟子、教祖と弟子がどのような関係にあ るかをよく理解すれば、弟子は師の用いた言葉を記憶して、その言葉を使ってみずからも考え、 表現しようとすることは明らかである。もちろん、弟子が自分で悟ったことは、自分の言葉で言 うこともできる。 しかし、弟子が自分の言葉で、師の説を解説することは、弟子はさけようとするのが普通である。お経においても、仏(ブッダ)の説いた言葉で、仏説(ブッダの説いた教理) を説明する。それ故、お経は、弟子の悟ったことであるから、ブッダの言葉がそのまま述べられ ているのではないが、ブッダの使っていた言葉があることは、十分考えられる。

このことは、キリスト教の聖書(特に福音書)の場合でも同じである。 おや様の語った言葉を、そのまま記録したものは、ごく少ない。しかし、弟子とみられる人た ちが伝えている教理や教理説明が、ほとんどおや様に由来することは、疑えないと思う。そのよ うな初期の信者の教話の記録を読むとき、このような結論に至らざるを得ない。

このことは、わたしの場合にも、ある意味で、あてはまる。教理を学んで、理解したことや悟っ た所を、自分なりに表現するとき、それはほとんど、先人の使った言葉であり、おそらくそのも とはおや様の言葉に行きつく。先人の教理説明を繰り返していると言われるものが大部分である。

芹澤茂「風の心」P338-P339

教祖直伝の教え

つまり、キリスト教の聖書や仏教の経典の成立経過を考えるならば、教祖高弟の記録した話は教祖に由来するものであり、その文言も教祖の言葉そのままではなくとも、教祖に由来している「教祖直伝の教え」である事は否定できない…という事だと思う

芹澤茂氏はかしもの・かりものについて次のように述べている

人間は、”かしもの・かりもの”であって、体のみならず、体の一部である頭の中に詰め込んでいる知識さえも、さらに人間生活に必要な一切の衣食住も、借りものである

芹澤茂 G-TEN(21)特集「たましい」P92

「かりものの理が分からねば、なにもわからん」と言われる借り物の理であればこそ、教祖高弟が記録した教話を排除してはならないと私は思う


最後に正文遺韻に記録された「かしもの・かりもの」の教えを載せて、本稿を終わりたいと思います

身の内さえも、かりものなれば、よろづ一切、みな借りもの
世上せかいに、ありとあらゆるものは、食うもの、着物、住む家を始めとして、すっきりみな神さまのもの
………
めいめい人間の心だけに、よろづ貸し与えて、重宝さしてくださるのでござります

正文遺韻 P173

追記

深谷氏は…

…むかし、衣食住のすべても「かしもの・かりもの」である、という説きかたをしたのも仕方ないこと かもしれません。「おふでさき」が公刊されていなかったし、「おさしづ」も手にすることができませんでした から…

と言っておりますが、むしろこの当時、三原典が公刊されたばかりで、その研究が十分に進んでいなかった事が誤解を生む原因となったと言った方が正しいと思う。それ故に、深谷氏のようにな考えに至らざるを得なかったのではないか。

安井幹夫氏はその著書「おふでさきを学習する」の中で

かしもの・かりものの教理理解は人間身体だけにとどまらず、もっと大きな広がりをもつものといってよいだろう

安井幹夫「おふでさきを学習する」P179

ここでは「人間身体だけにとどまらず」と、やはり暗に身の内に限定されない事を指摘しています

おふでさきは省略が多く、言葉を補わないと簡単には散文化できないと芹澤茂氏が指摘しています。おふでさきの研究が進んだ現在では、おふでさきの御歌の中にかしものかりものが身上に限定されるものではなく、衣食住、万物がかしものかりものである事が詠われている事が明らかになっています。上記の安井氏のおふでさき研究の著書に登場する文言はその事を如実に現していると思う。


→→→→→ 基礎資料 かしものかりもの



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