縁談
縁談
…… 遷宮した翌年の二月に静子が結婚、その四月六日は覚逸が結婚と、めでたいことが続いた。それから以後、保和子は給料の半分を十五年間続けて御供えしたのであった。それで物見遊山も映画もやめ、着物を買う事もやめた。教会への参拝にも、二銭を惜しんで歩いては御供えしたこともある。
やらせて頂いて十年ほど経ち、保和子は三十二歳になったが、なかなか会長様がいいとおっしゃらないし、縁談もなかった。縁のないのが結構ですよ、と言われた。
十三年経った頃、帯の布地をしまっておいたのが見つからぬ。その頃縁談があり、いい話だったのでそれに決めたいと思っていたが、そのことを会長様にお伺いすると「縁談は断りなさい。帯は引き出しにあるから捜しなさい」とおっしゃったので、捜して見たら見付かった。かくて月給の半分を御供えさせて頂く事約十五年の間には、歳は三十七才になるわけだから、当然縁談もたびたび起こったが、会長様は「まだいかんよ。もっといい縁があるよ」とおっしゃって、なかなかお許しにならなかった。
妹達は先に結婚するし、特に年老いてきた母親はあせっていたが、会長様を信じて、会長様が「よし」とおっしゃらぬ限りは待ったのである。しかし、世間体もあるので、銀行を止めたらということでその話をしたら、銀行では計算係りとして長年馴れた人にやめられても困るし、結婚でもしたらともかく、それまでは続けてほしいとのことであった。
ついに信仰して十五年間経った三十七才の時、岐阜県郡上の大変な山持ちの後妻としてどうか、と話が起こった。昔は一千町歩もあったというが、今も四百町歩の山林を有し、岐阜県では十一番目の山林所有者で、初婚の人がほしいとのこと。子供もない四十七才位いの人であった。
会長様は「これが、長い事、僕の待っていた縁談だよ」とおっしゃった。十五年間尽くさせて頂いた効能は、その縁談だけでなく、退職時の慰労金などにも現れ、課長でも頂いたことのない二百円という驚く程の額であった。それに、誰ももらったことのない時計も頂戴した。……
関根豊松傳「因縁に勝つ」P391~P392
追記
天理教の縁談に関する資料と言えば、おふでさき第一号の秀司先生の結婚を台とした有名な御歌があるが、具体的に縁を結ぶという結婚に関わる資料は三原典を紐解いてもほぼ皆無である。ここに取り上げたのは数少ない事例の一つであるが、これが結婚に関する普遍的な行動原理であるとは断定できない。ただ、関根豊松という稀有な神の用材の残した事例であり、悟りの参考資料としては一級のものと考えられるのでここに掲載させて頂いた次第である