理の親(2)…天理教教義学
第二章 発生と展開
第一章では「理の親」に関する文献資料を検証した。そこでは「理の親」とは親神様・教祖を指し示す言葉ではなく、人を指す文言であった事が明らかとなった。
中山善衛三代真柱様が「かなめ会」 の席で「理の親という言葉は、教祖以外に使うべきではない」と言われたとか、みちのとも昭和47年3月号で「私たちの親(理の親)は、親神様・教 祖以外におられないのです」と言われたなどという怪文書がネットにアップされた事がある。ただ、それが荒唐無稽の改竄捏造文書である事は既にnote「理の親…真柱様は本当に否定されたのか」で明らかにした。
この章では、人をして「理の親」と呼ぶ信仰形態「理の親子」は、どのようにして始まり、どのように発展し、現在に至っているのかという点について考えてみたい。
講(地縁)から教会(理縁)へ
「理の親」信仰の始まりは既に教祖ご在世時代に遡る事ができると思う。この事については深谷忠政著「天理教教義学序説」に詳しく述べられているのでそれを引用する。
明治11年には秀司様を講元として地縁による講、眞明講が結ばれていた。その後、講の数は徐々に増え、明治14年頃には講の数は20有余を数えるようになったと稿本天理教教祖伝に記されている。この頃から地縁よりも理縁による講の結成が増えていったのではないかと推測される。
信仰に導た者を「理の親」と呼び、導かれた者を「理の子」と呼ぶのであれば、教祖ご在世当時、すでに理の親子関係が存在していたと考えて良い。ただ、同じ地域の者の集まり(地縁)による講から、超地域的な者の集まり(理縁)による講へと移行して行く過渡期でもあり、救けの親は教祖であることは誰の目にも明らかであった事から、理の親子という信仰形態が表面化する事はなかった。これが表面化し、組織化されるようになったのは教祖のご昇天以降である。
明治20年、教祖が身をお隠しになり、神道十三派の一つとして神道の一派になると、講は姿を消して教会となる。この時「理の親子」という信仰形態は縦の系統として確立され、そのまま組織に反映されて階層的教会組織が出来上がった。
縦の系統(理の親子)を軸とした階層的教会組織と本席の啓示(神の言)による信仰指導で天理教は盤石の体制となったと考えられる。その有様がどのように評価されていたのか、中西牛郎著「神の実現としての天理教」から引用してみたい。
まとめ
「明治二十六年には階層的教会組織(分教会、支教会、出張所、布教事務取扱所)が出来上がった」とされる教団組織は様々な問題を抱えながらも、現在に至るまでそのままの形で存続してきた。存続維持を可能とした理由としては以下の二点が挙げられると思う
①理の親子関係(親心と不思議な霊救)
「我が身捨てても」という、子供を救けたい親心一条の心で、導く者(理の親)が、親神様、教祖の名代となっておたすけに従事する。そこに不思議な霊救が現れ、導かれた者(理の子)が救けられていく。こうして理の親は命の恩人となり、無条件に理の子が帰依していった。
②本席の啓示(神の言)による信仰指導
上級や所属の会長の言葉は異を唱える事のできない「神の言」であった。なぜなら、御本部から打ち出される言葉は、本席の啓示(神の言)に依るものであったからである。
現在、上記の二つの条件は満たされているのか?ここに「理の親」に関するすべての問題が内包されていると言って良い。次章ではこの点を検証すると共に、三原典、特におふでさきに暗示されている「理の親」、そしてこれを裏付けるが如くこふき本に書き残された文言を取りあげ、「理の親子」という信仰形態の本質、さらにお道の信仰の本質を掘り下げてみたいと思う。