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理の親(1)…文献に見る理の親

第一章 文献資料の検証

従来、理の親という言葉は信仰活動の中ではとても身近な言葉で、特別な文言ではなかった。ところが現在では忌み嫌われている為であろうか、あまり頻繁には使用されなくなってしまったように思う。昨今、この文言が取り上げられる時には、伝統的な意味が排除され、それは人を指すものではなく、親神様・教祖だけを指す言葉だ、などと言う意見が散見されるようになった。冷静に教史を振り返るならば、「理の親」とは親神様・教祖を指し示す言葉などではなく、人を指す文言であった事は自明のことである。「理の親」という文言に関する文献を時系列で以下に検証してみたい。

明治32年
道の親、理の親、これ心にちんと治めてくれ 
おさしづ 明治32年8月28日 峰畑為吉身上願)
 
大正7年
お道は、会長となりては道の理の親であります故、人を育てるという大きい心になりて役員信徒を仕込み…
(「誠真実の道」P141 増井りん大正7年12月 みちのとも 天理教道友社)
 
昭和27年
理の子供として、又理の親として、現実の姿には色々ありますが、これを具体的に申しますならば上級教会と部属教会、教会長と信徒、たすけた人とたすけられた人、という事になりましょう 
諸井慶五郎 昭和27年 「第14回教義講習会」)
 
昭和44年
皆さん方を学校に送っている肉親の親御さんも、あるいはまた理の親御さんも、周りの関係しておられる方々の心も、…
(「名誉会長様お言葉集」P101 三代真柱様 昭和44年3月31日 )
 
昭和52年
たすけ一条にいそしむよふぼくの丹精によって、新たなよふぼくが生まれる。前者を「理の親」といい、後者を「理の子」と言う。「理の子」が「理の親」に成人していく。それがだめの教えの信者の成人であり、それを親神は待ちわびていられるのである。 
(「天理教教義学序説」 P278  深谷忠政  昭和52年1月26日 天理教道友社)
 
縦の系統が形成されていった原動力は、「私は某によってたすけられた」という恩愛的な気持ちすなわち理の親であり子であるという相互 の情愛であったと思う…(前掲書 P297 )
 
先に歩む人と後から導かれる人、教えを伝える人と伝えられる人、布教者と信者、という関係を、お道では「理の親子」と申します。信仰の道を歩む上での親子ということで、導く人のことを「理の親」、導かれる人を「理の子供」と言っています。
(「お道のことば」深谷善和 P312-313  昭和52年 天理教道友社)
 
平成2年
修理、肥の上に必要なものとして、自然に生まれてきたはずの理の親・理の子、こうした関係もここでしっかり反省して、本当に稔りのある、親神様の思召に叶う丹精が進められるように、という事をお聞かせ頂くのであります。
(かなめ会報 深谷善和/第281号 立教153年(1990年)1月10日号)
be’s note参照

以上、文献資料から演繹される事とは…大正7年(1918年)から平成2年(1990年)まで約70年間、さらに教祖130年祭まで(現在でも系統によっては「理の親」信仰は絶対的真理として生きて働いている)を考慮するならば約100年、明治32年(1899年)のおさしづを最初の出典(※補足)だとして組み入れるならば、現在まで約130年間、いずれにせよ、教祖ご昇天後から現代に至るまで、(増井りんから数えたとしても)一世紀以上、理の親という文言がお道の信仰形態を現す最重要文言として使用されて来たという事実は誰も否定できない。特に注目すべきは、三代真柱様が発言された「理の親御さん」という言葉、さらに深谷善和著「お道の言葉」には「理の親子」という項目で確りと解説されている点である。この信仰形態(理の親子)を排除してはお道の教史と信仰を語る事は不可能である。
 
ここでは、

理の親とは人を指す言葉であり、親神様・教祖を指し示す文言ではない

…という歴史的事実をまず基本的な事実として認識しておきたい。

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※補足

……道の親、理の親、これ心にちんと治めてくれ……
明治32年8月28日(峰畑為吉身上願)

これは、峰畑為吉という方の身上願いの時のおさしづである。この頃、城島分教会では後任問題があり、おさしづでは山田伊八郎を後任とするようにとの指示があったが、簡単には決まらず、二年の歳月が経過、後任候補の一人峰畑為吉が身上となった。その時のおさしづで、山田伊八郎を「道の親、理の親」だと心に治め、身を引くように諭されたのだと解釈できる。以下に参考資料を掲載しておく。

城島分教会担任上村吉三郎出直しに付、後任山田伊八郎を以て願
「……一時定める処、心置き無う定めてやるがよい。さあ受け取る/\。」(明治30年5月7日)

上記、明治30年5月7日のおさしづにより、後任は山田伊八郎にすることが指示されている。
 
しかし、指図どおりにはいかない事情が当時の城島分教会にはあり、決定しないまま二年という歳月が経過してしまう。そこで次の伺いのさしづとなる。

前増野のおさしづよりだんだん本部役員協議の上城島分教会の事であろうとの事に付願(今分教会にては未だ会長定まらんに付、後任とすべき人はたゞ今にて3名あります。山田伊八郎は古き人なり、また加見兵四郎は講社多分あり余程道のため尽力のせる人なり、又峰畑為吉は副会長の名もあり教会に余程功ある人なり。目下取定めに心配致し居ります。この処願。)

 「……めん/\勝手という理があってはならん。……中略……もう一遍協議をし直せ。むこうにせいとは言わん。ぢばからこうと言えば、そむく者はあろうまい。治まるものやろう。」(明治32年5月31日)

銘々、勝手の理があってはいけない。もう一度「明治30年のおさしづ」をもとに協議し直しなさい。既に指図してある「おさしづ」通りにすれば誰も背く者はいない筈である。という意味のおさしづであるが、それでも決定には至らなかった。そこうするうちに峰畑為吉の身上となり、おさしづを伺う順序となる。

……道の親、理の親、これ心にちんと治めてくれ……
明治32年8月28日(峰畑為吉身上願)

このおさしづの原文を見てみると、「道の理」という言葉の直前に「改まりた理は、道順序の理」とある。つまり「…改まりた理は、道順序の理、道の親、理の親、これ心にちんと治めてくれ……」である。後任決定に関するおさしづの一連の流れ(山田伊八郎加見兵四郎、峰畑為吉の三名が後任候補)を考慮し、城島の歴史を紐解き、「道順序の理」という文言から考えるならば、「理の親」とは峰畑為吉の導きの親である山田伊八郎だと考えるのが最も妥当な解釈のハズである。三名の中で誰にするのか…という問答の中で、親神様、教祖の理を立ててもらいたい…というような抽象的一般論の指図のはずは無い。ただ、天理教事典には「理」という項目の中の最後の方で何の説明もなく下記のように表記されている。

天理教事典P996
…「道の親、理の親」(教祖、親神)という言葉(さ32・8・28ホ)…

※ 尚、「道の親」については中西牛郎著「神の実現としての天理教」P357  昭和4年12月25日発行に「…教祖の延長たる中山家世襲館長を道の親として、これに服事して…」とあり、親神様、教祖ではなく、真柱様(人間)を指す言葉として使用されている事を付け加えておきます。


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