理の親(1)…文献に見る理の親
第一章 文献資料の検証
従来、理の親という言葉は信仰活動の中ではとても身近な言葉で、特別な文言ではなかった。ところが現在では忌み嫌われている為であろうか、あまり頻繁には使用されなくなってしまったように思う。昨今、この文言が取り上げられる時には、伝統的な意味が排除され、それは人を指すものではなく、親神様・教祖だけを指す言葉だ、などと言う意見が散見されるようになった。冷静に教史を振り返るならば、「理の親」とは親神様・教祖を指し示す言葉などではなく、人を指す文言であった事は自明のことである。「理の親」という文言に関する文献を時系列で以下に検証してみたい。
以上、文献資料から演繹される事とは…大正7年(1918年)から平成2年(1990年)まで約70年間、さらに教祖130年祭まで(現在でも系統によっては「理の親」信仰は絶対的真理として生きて働いている)を考慮するならば約100年、明治32年(1899年)のおさしづを最初の出典(※補足)だとして組み入れるならば、現在まで約130年間、いずれにせよ、教祖ご昇天後から現代に至るまで、(増井りんから数えたとしても)一世紀以上、理の親という文言がお道の信仰形態を現す最重要文言として使用されて来たという事実は誰も否定できない。特に注目すべきは、三代真柱様が発言された「理の親御さん」という言葉、さらに深谷善和著「お道の言葉」には「理の親子」という項目で確りと解説されている点である。この信仰形態(理の親子)を排除してはお道の教史と信仰を語る事は不可能である。
ここでは、
理の親とは人を指す言葉であり、親神様・教祖を指し示す文言ではない
…という歴史的事実をまず基本的な事実として認識しておきたい。
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※補足
これは、峰畑為吉という方の身上願いの時のおさしづである。この頃、城島分教会では後任問題があり、おさしづでは山田伊八郎を後任とするようにとの指示があったが、簡単には決まらず、二年の歳月が経過、後任候補の一人峰畑為吉が身上となった。その時のおさしづで、山田伊八郎を「道の親、理の親」だと心に治め、身を引くように諭されたのだと解釈できる。以下に参考資料を掲載しておく。
上記、明治30年5月7日のおさしづにより、後任は山田伊八郎にすることが指示されている。
しかし、指図どおりにはいかない事情が当時の城島分教会にはあり、決定しないまま二年という歳月が経過してしまう。そこで次の伺いのさしづとなる。
銘々、勝手の理があってはいけない。もう一度「明治30年のおさしづ」をもとに協議し直しなさい。既に指図してある「おさしづ」通りにすれば誰も背く者はいない筈である。という意味のおさしづであるが、それでも決定には至らなかった。そこうするうちに峰畑為吉の身上となり、おさしづを伺う順序となる。
このおさしづの原文を見てみると、「道の理」という言葉の直前に「改まりた理は、道順序の理」とある。つまり「…改まりた理は、道順序の理、道の親、理の親、これ心にちんと治めてくれ……」である。後任決定に関するおさしづの一連の流れ(山田伊八郎、加見兵四郎、峰畑為吉の三名が後任候補)を考慮し、城島の歴史を紐解き、「道順序の理」という文言から考えるならば、「理の親」とは峰畑為吉の導きの親である山田伊八郎だと考えるのが最も妥当な解釈のハズである。三名の中で誰にするのか…という問答の中で、親神様、教祖の理を立ててもらいたい…というような抽象的一般論の指図のはずは無い。ただ、天理教事典には「理」という項目の中の最後の方で何の説明もなく下記のように表記されている。
※ 尚、「道の親」については中西牛郎著「神の実現としての天理教」P357 昭和4年12月25日発行に「…教祖の延長たる中山家世襲館長を道の親として、これに服事して…」とあり、親神様、教祖ではなく、真柱様(人間)を指す言葉として使用されている事を付け加えておきます。