神様は、あほうが望み


『神様(教祖)、私ども(増井りん)は「あほう」でござりまする』と申しましたならば、『さようかえ、おまえさんは「あほう」かえ。神様には「あほうが望み」と仰るのやで、利口の者は付けん。人が小便かけたならば「ああ、温(ぬく)い雨が降ってきたのや」と思うて喜んでいるのやで。人が頭を張れば「ああ、あなたの手は痛いではございませんか」と言うて、その人の手を撫(な)でるのやで』と仰る。『その通りに優しい心になるのやで』と、お聞かせ頂いております。『人がきつい言葉を言えば、われ(自分)もきつい言葉にて、一言(ひとこと)言われれば、その通り仕返しをするというのが「利口」やから、仕返しをするのやないほどに』。その時には、言われましても、「あほう」になって、言い返しをせぬように。叩(たた)かれても、叩き返しをせぬようにするのが、これが「本真実の誠、真心」である。それが利口であれば、なかなかそのような心になっておりませんから『言われたならば言い返す。叩かれたら叩き返しをする。一つ叩かれたら二つも三つも叩く。一言(ひとこと)言われたならば、二言も三言も言い返しをするのが「利口の人の返し」や。それを「あほう」になって、叩かれても、叩き返しをせぬのが「誠」や。「 神様が自分にお返しをして下さるのや」という心になるのやで』 と神様(教祖)のお言葉。「どうぞどうぞ神様、その人たちを救けてやって下さいませ」と、まだ神様へ、その人の事をばお願いをするのが、これが「真実の誠」であります。
この方の「息のお授け」で助けられた信者は幾万とおられます。この話の中で「この心を真似よ」と言われても心底この心になるには年月がかかると思います。当時の昔の先生方の通られたご様子が話のなかに見てとれます。

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