singing dog第三回公演「ユートピア」

☆最高にしんどかった----。

note作りたてで言う話でもないんですけども。
singing dogさんの「ユートピア」を配信でですが見たので感想を書きました。

https://www.singing-dog.com/information/next-stage/


ダラダラぐだぐだ書いております。


⭐︎絶対的支配者・父

「文句があるなら出て行け」とは言わないんですよね。
暴力は振るわない、体に傷はつかない。だから、証拠はありません。
「お前が言ったんだ」「サッカー選手になりたい、野球選手になりたい、なのにどうして諦めてしまったんだ」
その言葉の裏には「オレのせいじゃない」という断固として認めない気持ちがそこにある。

この家族はもれなく全員「自分のせいじゃない」と思いたくて仕方がない。
「自分のせいじゃない」と思うことでなんとか生存してきたから。
子供たちは父さんのせいにして、父さんはおまえたちのせいにして、母さんは父さんと子供達のせいにする。優秀になれないのは、つまらなくても笑っているのは、自分の思い通りにならないのは、幸せになれないのは、全部自分のせいじゃない。
自分じゃない誰かのせい。
幸せという目に見えない、計測できない、定義もない、はっきりしないものを求めているから、次第に口をつぐむようになる。何も言わなくなる。だから、うまくいかなくなる。自分はもしかしてとてつもなく不幸なんじゃなかろうか。
そしてそれは、何かを間違ったからなんじゃなかろうか。
「何を間違った?」「どうすればよかった?」「悪いところがあったら言ってくれ、直すから」
親子間、夫婦間でこの言葉を吐くのは、いつだって親の側で、夫の側であると私は勝手に思っている。

こうしてお芝居として客観的に見ると驚くほどシンプルで、「口下手で亭主関白な父」「文句を言わない代わりに不倫していた母」「反抗できない、あるいはしないことを選んだ結果こじらせた子供達」というわかりやすい図式で、本当に心が痛いんですが(笑)、今ここで、(笑)とつけてしまうところにもまた私の笑顔ぐせが抜けていないのが現れていてまたしんどいです。
笑顔でいればすべて解決します。
でもそれは、この家の中では、という限定で。
自分が大人の立場になった今、確実に言えるのは「○○すれば必ず幸せになれる」と自分にも相手にも言ってはいけないということかなと思いました。

目に見えないものをみんなで見るのがお芝居の楽しさのひとつだと思っています(もちろん目に見えるもの・聞こえるものも大切だと思ってますし好きですが)。
これだけ長い時間を彷徨っても、小道具は「現在」に存在する落花生や布団と枕、指輪のケースだけなのが、逆に観客のそれぞれの心の中の「家」が見えてきてしまってより効果的につらくなってしまうという、最高にしんどかったです。


☆役者さんごとに感想まとめ

父さん役板垣さん。
お芝居を観ていてたまにある「あっ、私この人だめ」の人でした。
待ってください!悪口じゃないんです・・・!そのくらい雰囲気が出ていてちょっと怖かったです。
お芝居って生だから、(まあ今回私は配信で見たんですけども)怖いなと思う役の人の演技を見てしまうと役者さんまで怖くなってしまうという・・・。
いやそのくらいお上手なんです。
わめいたり大きい声でガツガツ蹂躙するタイプの男性も苦手ではありますが、こういう静かに有無を言わせない男性を見ると私は本当に、心の中の開けてはならない箱が開いてしまうのです。板垣さんはきっと気さくな方なんでしょうけども!いえ、それでも板垣さんの中に棲む父さんなのでしょうからやっぱりちょっと板垣さんのことも怖いのでしょうか。
相手との対話よりも、どちらかといえば象徴としての存在として君臨していて、あの家の中で一番さみしかったのかもしれないなとも思っています。そのさみしさとひとりよがりな身勝手さの表現ってすごいなあというか。
死にかけの妻を前にして、飼い犬にすべてを託してしまうほどの人ですからね。この、目の前で会話しているはずなのに一向にコミュニケーションの取れない感じがもう、心当たりがありすぎるので本当にもう・・・無理でした。
あまりに優しさや、それから観客に「好かれたい」と思っていい人ぶってしまうと作品として中途半端になってしまいますから、そちらに振り切らなければいけない役を演じるのは、大変なのでしょうか、それとも楽しいのでしょうか。こればっかりはプロの役者さんでないと分からないのだろうなと思いました。(私はアマチュアで初心者なので、やりたいことだけを選べるので)

次男・ナオ役井内さん。
そもそも井内さんを存じ上げてたのがコロナ禍になってからなので、生観劇をしたことがないのですが、いわゆる「推し」の俳優さんの一人なので思わず気になってしまい、「ユートピア」を見ました(本当なら私も大都会トーキョーに乗り込みたかったですが)。
私は育った環境も相まって前説が大好きで、「わあ~!推しが前説してる!」というよく分からないテンションで始まりました。前説の、これから始まるぞという期待感と、現実でも非現実でもないアワイの感覚が好きなんです。最近たくさん配信する作品が増えましたが、私はワガママを言わせてもらうとするとぜひ、前説から、というか、開演15分前からずっと会場の様子を映して欲しい。とってもワガママですが。
話が逸れてしまったんですが私は、井内さんが泣きわめいたり駄々っ子をこねるときの演技がすごく好きです。
これはきっと井内さんのファンの方たちは分かってくださるのではないでしょうか。何か放っておけない末っ子と言いますか、まさしく今回の役もぴったりですよね。
私からすると随分年上の男性なので失礼なのですが、すねて口を尖らせるところがなんともかわいらしいんですよ。
ナオは甘ったれで、しっかりした大人ではないかもしれませんが、それでも人として魅力的なんですよね。あれは長子には出せない、末っ子ならではのかわいさなんですよ。

大ちゃん役、坂井さん。
ひとってどうして居心地の悪いときって自分でも何言ってるのか分からないほどしゃべってしまうのでしょうかね!!笑
そこに共感してしまってもう。
大ちゃんもなかなか世間一般から見ればちゃらんぽらんで枠から外れた人間ですが、この家族の歪さからするとどうにもフツーの人のように思えてしまうのが不思議でした。算段があって近寄ってきているのは百も承知、きっと大ちゃんは将来、父さんのようになってしまうとも思うんです私は。
でも、それでも、ちゃんとスーツで来るところとか、車出してくれるとことか、この人ならかずちゃんの話を聞いてくれるんじゃなかろうかと期待してしまうんです。
家族の話がメインですから、大ちゃんのこれまでのことは語られませんでしたけれども、大ちゃんもこれまで生きてきて、決して器用なタイプではないのだろうなと分かるので、やっぱりどうしても娘って父親に似たような人を選んでしまうんですよね、これどうしたらいいですかね?

長女・かずちゃんと母役、内海さん。
たぶん自分の実生活に一番直結してしまっている役なので、一言一言が重く響いてしまいましたし、にこっと笑うたびに「もう笑わないで!」とも思いつつ、暗い心を吐露する段になると「もう言わないで!笑って!」となってしまいとてもしんどかったです。
少女にも大人の女性にも母親にも見えるのはやっぱり、お芝居のおもしろさとおそろしさというか、ステキでした。纏う「いいオンナ」感ですら、父に気に入られたくて必死に努力してきた結果なのだと、幸せになりたくてやってきたからなのだと、主張する背中が妙にさみしかったです。
「ナオ、もうだまんなよ、『父さんごめんなさい、ボク海よりペンションが楽しみです』って言いな。ほら、簡単でしょ」父親の隣でにこにこしながらおびえる姿から、そんな言葉が出てきそうで、あの小学生のかずちゃんは、たぶん忘れられません。
肩たたきのシーンも印象的ですよね。男性同士って、大切な話は真正面で向き合ってやりがちですけど、娘は父親に対して面と向かって言い争っても勝てませんから。自分の顔を見せてはなりませんよ。もし涙を武器にして戦うときも、正面ではなくさっと斜め下に視線を逸らすべきなのです。
背中越しにも寝首をかくのでもどうにでも、恨みの晴らし方はいくつでもあるのですが、それをせずに、できずに、にこにこしながら肩たたきをするのが、娘というものなのだと私は思っていますし、そういう象徴なのかなと思いました。

長男・はじめ役、楢原さん。
ああ、典型的な長子だ、と思い、身につまされました。どうしてこうなってしまうんでしょうねえ。親というものは、子供ができると自分の分身だと思うものなんでしょうか。このへんはもう共感が強すぎてどうにもなりません。
父に逆らえなかったのは、怖かったからだけではないと思います。絶対的な存在を前にして、恐怖だけではなく、惰性もあり、尊敬の念もあり、期待に応えたいという切実な思いもあり、そういう複数の感情が絡み合っているからこそ、きっとどうにも動けないのだと思います。
どうして離婚調停までに至ったのか、はじめさんは引き返せるのか、全く分かりません。どうしてでしょうね、脳みそも心臓も異なる別々の生き物のはずなのに、きっとはじめさんも知らぬうちに、家の中で「父さん」をやっていたのでしょう。
私は同性の兄弟がいないので分からない感覚ではあるのですが、やはり性別が同じであると子供というのはよくよく比較されるものですよね。似ているのが当たり前なので、兄弟同じレベルを求められたかと思えば、それぞれの個性を出すように圧力があったりする・・・。なんだか暗くなってきてしまいましたが。

☆現在進行中、個人的な暗い話

個人的な話なんですけど、叔母(父の妹)は息子(私からすると従兄弟)が物心つく前に離婚して出戻り、叔父(母の弟)も現在別居中、両親もほぼ家庭内別居してます。
身近にロールモデルがないと、円満な夫婦というものが想像できないんです。私にとっては、ラブラブな両親とのびのび過ごす子供達というのはフィクションの中の出来事で、「ユートピア」のほうがよっぽど真実に近いと思ってしまったんです。
私は「子は鎹」という言葉が世界で一番嫌いです。私は幼少期から、誰に頼まれたわけでもないのに鎹をやってきた。そして大人になってからも続く鎹業に疲弊してしまったわけでうす。
勝手にやって、勝手に疲れているので私も悪いんですけど。

最近思うことは、「長生きしたもん勝ち」ということ。作家・エッセイストの佐藤愛子さんの「九十八歳。戦いやまず日は暮れず」を読んでより強くそう思っています。
私は見ての通り(読んでの通り?)根暗な人間なので、病気でも事故でも自殺でもなんでも、しんでゆく人を見て「ずるい。私は今日も負けた」と本気で思っていたときもあった人間です。
死ぬことですべて解決するし、死は勝利だと思っていた。死んでしまえば何もしなくていいから。そのくらい、何もしたくないと切に願う時間が私にはありました。
でも佐藤愛子さんが好き勝手に(と、言っては失礼だが)もの申して、自分の幼少期のことまで洗いざらい人なつっこい文章にされてしまっていると、「死人に口なし」とはこのことかと思ってしまう。長らえて長らえて、相手よりも長く生きれば、好きなことを言って楽しめるのだ。勝ちだ。生きよう。最近そう思います。
勝ち負けじゃないんですけどね。
今はまだ、この考えでないと無理なんです。

子供たちが「家」の中に再び集まり、父さんに生まれて初めて「家」の中で反抗した(それでも父さんは目の前にはいないが)のは、父さんが手術をして「家」の中では半分死んだからだ。半分死んでいるから、好きなように言える。半分死んでいないと父親に対して口答えどころか提案や我がまますら言えないのは、まあおかしな「家」ではある。でも、よくあることなんだろうなとも思います。

ぐるぐると考えてしまう人間ではあるんですが、こうしてフィクションで見ると自分の気持ちやこれまでやこれからのことがはっきりしたりするので、どうしても見ちゃうんですよね~~
しんどいと分かっていながら見てしまう。
まあこれは、「激辛って書いてあるラーメンをわざわざ食べに行ってうわほんとに辛いよ~!ってやってるとき」と同じなのでね、大丈夫です。

とても好きな演劇でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?