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ねえ、話したいことがあるよ、






平日の仕事帰りに突然「会おう!」とか、「飲みに行こう!」とお互い言い合える友達が側にいたら、きっと人生もうちょっと陽気に生きられただろうなと思う。
社交辞令の「今度飲みに行こうね」のテンプレートは、わたしにとって試されてるように感じてしまう日もある。「今度飲みに行こうね、いつにする?」と言ってくれればいいのに、と心の中で嫌味を思ったりしてしまう。





どうしても聞いてほしいことがあった一日、
ひたすらイライラして愚痴りたくなった一日、
嬉しいことがあって飲みたいなって思った一日。





誰かを誘いたいと思ってもなんとくためらってしまう人は実は多いと思う。
わたしもその一人で、連絡先を開いては消して、家に帰ろうと決めた夜が何度もあった。




あの子がいいけど忙しいかな、
今日はあの人と話したいけど遠いな、
断られると悲しいな、
来てくれても無理してるんじゃないかな、
予定あったのに断ってもらって申し訳ないな、
相手の立場にたって、いつも断る前提で理由を自分の頭の中であれこれ考えていつも取り越し苦労ばかり。
結局、自分の中で処理しようという、なんの解決にもならないことも多い。





もっともっとワガママに、
もっともっと自分の思い通りに、
言葉を発して行動したいな、と思う。
その反面、言葉は本当に大事だから誰かに伝えたときに、その言葉本来の意味として伝わっているか不安になる。
わたしが発するが故に言葉本来の意味として相手に届かない場合もたくさんあると思っていて、出来ればわたしを介さずに言葉が届いて欲しいと思うことも多々ある。






わたしを介さずにと思うことは他にもあって、
わたしを性の対象ではなく、一つの個体として認識してほしいと思うことが生きてきて大半だったかもしれない。
女性というだけで、かわいいかわいくないの処刑台にあげられることに昔からなんだか嫌悪感しかない。



新しいコミュニティに属するとき、人見知りはしないから自分から話しかけてしまうけれど、
媚を売ってると思われただろうかと悩んだ経験もある。そうすると、そのあとはひたすらにガサツなわたしを演じて、どうかそのコミュニティでわたしを女性として扱われないように操作するのだ。




わたしはわたしという個体でみんなに認識してもらいたいし、一人一人と接したいと思うのにどうしてうまくいかないんだろう、と悩んだこともあった。








先日、「あなたの綴る文章は冷静で綺麗で、丁寧でさわやかです。わたしはとても気に入りました。きっと、あなたは素敵な人ですね。」とメッセージをいただいた。
文章を褒められたことはもちろん嬉しいけれど、文章は自分の思考や感情の整理も兼ねているため、自分のために書いている部分も多い。
なにより、その時、わたしはわたしを介さずに言葉が遠くまで届いている気がして今までに味わったことのない嬉しさがこみ上げた。






素敵な人でもなんでもない、ただの個体と認識してほしいと思っているへんてこりんな考えの持ち主だけど、またわたしが綴る言葉がどこかの誰かに届きますように。






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